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文体をとりもどせ!

 少し前からはてなブログMarkdown記法で書いていた。Markdown記法は見出しやリストを使う際にとても便利だからだ。

 Markdown記法の導入に合わせ、段落の付け方もMarkdown記法が想定しているWebで一般的な欧文風の形式にしようと思った。段落の最初に1マスの空白を入れず、段落と段落のマージンを広く取る形式だ。厳密には欧文で一般的な形式とも少し違うので、とりあえず欧文「風」と表現しておく。
 これはこれで書きやすかった。要点をまとめて1段落とし、連ねてく。そういう書き方であるので、何かを説明する際にはとても理にかなっているように思った。
 段落の始めに必ず空白を入れる和文形式、特に頻繁に改行するモダンなスタイルにおいては、各段落が要点ごとにまとまっているとは言い難い。段落を作るのは主にリズムである。要点がリズムを作っていくことも確かであるが、要点のまとまりが直接的に段落を形作っているわけではない。その少しの差が、僕の感覚では大きな差となる。

 

 僕が欧文風形式の段落の付け方を始めたのは、説明を書きやすく、そして読みやすくするのが重要だと考えたからだった。なんとなくそれが大事であると思っていた。
 しかし、最近になって気づいた。

 

 ——そんなに自分は説明したがっているのか?

 

 ——そんなに読み手は説明を読みたがっているのか?

 

 否、否である。そしてよく考えてみれば、そもそも物事の魅力は説明の詳細さ、わかりやすさに宿るものではなかった。
 自分の感情を表現すること、読者の感情に働きかけること、ここにこそ魅力が宿るのだ。
 そう気づいたとき、欧文風形式で段落を付けていくことの不自由さを改めて感じた。
 欧文風形式だと、日本語の持つリズムを引き出しにくいのだ。もちろん欧文風形式でも良いリズムを引き出せている人はいくらもいるが、自分とってはやりづらい。
 なぜなら今まで読んできた素晴らしいリズムの文章も、今までリズムに苦心して書いてきた文章も、そのほとんどが和文形式だったからだ。欧文風形式とは蓄積がまるで違う。

 

 日本語のリズムを引き出せているというのは、情報の伝わり方に一定の法則性があるということであり、すなわち文体を備えているということである。
 文体という土台がしっかりと存在していると、感情の機微が確かな情報として読み手に伝わる。それは自分の感情を表現することと読者の感情に働きかけることを可能にし、魅力が宿る依代を作ることに他ならない。
 つまりは和文形式をやめることで、僕は文体という魅力の依代を捨てていたのだ。確かに欧文風形式は説明しやすいが、文体を捨ててまで得る利点ではない。欧文風形式で文体を維持できれば問題はないのだが、しばらく書いてみてもうまく適応できなかった。僕は和文形式の世界に長く暮らしすぎていた。

 

 こうなってくるともう和文形式で進むしかない。実際このブログを久しぶりに和文形式で書き始めて、リズムの自由さを感じている。この手でコントロールしている感触がある。いまここで文章を紡ぎながら、少しずつ文体を取り戻しつつある。そんなささやかな高揚もここに宿るといい。

 

 さて、2017年は何を書こうか。