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取っ手を付ける作業

僕はある武器を持っている。それはちょっとした工夫の一つで、「何かをすべきだ」と感じた時にはいつも頼りにしている。

いい加減な先生

たとえば学校で新入生に先生が「はい、隣の人とペアになって自己紹介して」と言ったとする。そしたらそこそこ普通に自己紹介が始まり、多少は親睦が深まるだろう。

だが先生が「はい、親睦を深めて」とだけ言ったとしたらどうだろうか。多くの生徒が自然にコミュニケーションを取って親睦を深めていくとは思えない。

もしくは「ほら、コミュニケーション能力を発揮しなよ」といういい加減な指示だけ与えたらどうだろうか。多くの生徒はどうすべきかわからないはずだ。迷いなく行動できる生徒なんてかなり少数だろう。

これは極端な例だが、これに近いことは世の中に溢れている。「リーダーシップを発揮すべきだ」なんて言葉を耳にする機会は幾度となくあるが、それは「ほら、コミュニケーションを能力を発揮しなよ」としか言わないいい加減な先生と同じようなレベルである。社会生活において重要な役割を担うならば、「リーダーシップを発揮すべきだ」なんてことはわかりきっている。そんなもの出来たらやっている。

何らかのコンテンツを作る人間ならば、「面白くしなきゃ」なんて考えも常に頭にあるだろう。しかし、それだけではいい加減な先生と同じレベルだ。

具体性の欠如

「ほら、コミュニケーションを能力を発揮しなよ」

「リーダーシップを発揮すべきだ」

「面白くしなきゃ」

これらに足りないのは、具体性である。もっと言えば、具体的な行動をイメージ出来ないことが問題だ。人は自分が行動する具体像を抱けないと、しっかりと行動に移せないのだ。

だからいい加減な先生は生徒に対し「ほら、コミュニケーションを能力を発揮しなよ」と思ったとしても、まずはそれをもっと具体的にしていく必要がある。「はい、隣の人とペアになって自己紹介して」くらいになれば具体的な行動をイメージできるので問題ないだろう。

取っ手を付ける作業

このように、抽象的な概念を実現するため、より具体的なものに落とし込んでいく作業を僕は「取っ手を付ける作業」と呼んでいる。「親睦を深める」とか「コミュニケーション能力を発揮する」なんていうのは、そのままだとツルツル滑って手に持つことが出来ない。手に持てないということは使いこなせないということだ。だから具体性という取っ手を付け、その概念を使えるようにするのだ。

「取っ手が付く」状態を具体的にイメージしやすい例を挙げよう。「立食パーティーでいろんな人と知り合う」ということを実現したいと思ったとする。とりあえず脳内教室で先生にそれを言わせてみよう。そうすることで、どれくらいの具体性を持っているかがすぐにわかる。

「はい、立食パーティーいろんな人と知り合って」

無茶言うなよ。なんだよその指示。これは明らかにいい加減な先生である。

このままじゃ使えない。あまりにも取っ手がなさすぎてツルッツルだし、これはなかなか重いのでしっかりとした取っ手が必要そうである。そういう場合は「はい、◯◯して」フォーマットに当てはめても自然なくらい具体的な行動を考える必要がある。

で、まぁいろいろと考えていくわけだが、ここでは割愛してよく知られた取っ手を付けることにする。それを先生に言わせてみる。

「はい、二人組を見つけて話しかけて」

無茶だろうか? 意味不明だろうか? これはやろうと思えばすぐ実行できることだし、指示として自然である。まともな先生になった。

これが取っ手が付いたということである。「立食パーティーでいろんな人と知り合う」という、どうしたらいいかわからない物事に「二人組を見つけて話しかける」というつかみやすい取っ手が付いたのだ。この取っ手を知っていれば、今後「立食パーティーでいろんな人と知り合う」を行使出来るようになる。

なんで二人組を見つけて話しかければ「立食パーティーでいろんな人と知り合う」が実現出来るかというと……(割愛)

知りたければ各自で検索してほしい。

普通の人間の特別な武器

こういった「具体性を持たせる」だなんてそんな当たり前の思考過程にわざわざ名前付けるのは大袈裟だと思う人もいるかもしれない。確かに当たり前にやるべきことだし、大袈裟だ。だがごく普通の人間においては、ここまで大袈裟にやらないとこんな当たり前のことすら出来ない。

「リーダーシップを発揮する」には何をすればいいのか?

「面白くする」って何をすればいいのか?

もしこれらの問いに対し「◯◯する」といった具体的な行動を即座に答えられるような人がいるならば、それは特別な人間だ。考えれば誰しもその人なりの答えは一応出るはずだが、普通の人は答えられない。

なぜか。

それはちゃんと考えたことが一度もないからだ。ただそれだけだ。答えが出るまで考えたことがあれば、合っているか間違っているかはともかく、答えることは出来る。でも「答えられない」が普通なのだ。僕もそうだったし、未だに多くの問題についてきちんと答えられない。

だけど僕は特別なことをやりたいんだ。だからごく当たり前のことに「取っ手を付ける作業」だなんて大袈裟な名前を付けて工夫する。

「具体性を持たせること」をもっとイメージしやすい表現にすること自体が「取っ手を付ける作業」であり、それによって以前より思考の質が上がった。何かをすべきだと思った時も、その考えに取っ手が付いているかどうかを意識することで、直感的に具体性が把握できる。「取っ手を付ける作業」という取っ手は僕にとっての特別な武器だ。

そう、すべては筋肉

このブログでは僕が考えてみたいろんな取っ手を紹介していけたらなぁと思っている。「リーダーシップ」の取っ手や、「面白さ」の取っ手など。その取っ手を使って自分以外の誰かが何を出来るのかなんていうのも気になる。

こういうアイディアは共有しない人もいるかもしれないが、僕はどんどんばら撒きたい。アウトプットするために練り直すことで、さらに質が高まるからだ。

おまけに思考する機会が増えることで、新たに何かを考えるときの力も強くなる。思考力は筋力と同じようなものである。一度持ち上げたバーベルを大事にしまっておいたところで、筋力は増えない。繰り返すことで次が生まれる。

特別なこと

まぁ実際のところ、この「取っ手を付ける作業」という取っ手があったところで劇的な効果があるわけではない。ごく普通の人より少しだけ早く、あるいは少しだけ具体的に、物事を考えられるようになる程度だ。強烈なパワーで思考して突き進んでいく特別な人間のようにはなれない。しかしその「少しだけ」を繰り返すことで、普通でない、何か特別なことが出来ると信じている。