欲求にフォーカスしているか?

 最近こんなツイートを見かけた。

 

 

 はっとさせられた文章だった。

 これは言葉の選択の問題ではないのだ。自分に何らかの欲求が生じた際に、ちゃんとそれを自覚し、適切なプロセスでその欲求を満たせるかという問題なのだ。

 そもそも我々人間の性質として、それを行うのが得意ではない。欲求が満たされない状態が不快感として意識できるようなった際にはもう、その原因を他人の性質に求めているものだ。しかしそれはあくまで後から発見された「原因」であり、本当の原因ではない。不快に感じる他人の性質をいくら攻めたところで、原因ではないので心に影は居座り続ける。

 そういった構造を意識していないと、大人でもなかなかこの問題に対処できない。人間の習性というレベルなので、完璧に意識できる人間なんていないだろうし、そこそこ意識できる人間もまずいないだろう。しかし全くできないとなるとまずい。常に心が影に支配され、まるでいつだって環境に蹂躙されているかのように感じてしまう生き辛さに苛まれるだろう。本当は現状を変えられるのに、原因を他人に求めているから簡単には変えられず、きっと何もできずにすべてが終わる。

 これは極端な例だが、他人事ではない。例えばツイートの件だと、おそらく「羨ましい」を「ずるい」と表現したことについて説教したのだろう。しかしだ、それはあくまで言葉の選択の問題だ。親自身が、説教するほどの不快感の原因を他人に求めている。

 親を説教へと駆り立てるのは何か。欲求にフォーカスして考えてみる。そうやって考えてみると、おそらく「不快感を他人のせいにする人間になってほしくない」という欲求が説教の奥に見えてくる。

 そこで考えてみる。その欲求を満たすには、言葉の選択を注意することが適切なプロセスと言えるのかどうか。駄目というわけでもないだろうが、「羨ましい」という感情以外には通用しない。これは、親自身が「『羨ましい』を『ずるい』と表現する人間になってほしくない」というところまでしか自分の欲求を認識していないせいもあるかもしれない。そもそも「ずるい」の奥にある「羨ましい」を見つけ出した時点で素晴らしい功績なのでもはや重箱の隅をつつくようなものだが、もっともっと奥に行けるはずだ。

 ではどうするのがより適切かと考えてみると、「不快感を他人のせいにする人間になってほしくない」という欲求を素直に伝えることだろう。頭ごなしに良し悪しを伝えるより、自らの欲求を明確に言語化して他者に伝え、その欲求を満たしていくのを実践してみせるほうが、より高いレベルに導けるのではないだろうか。

 

 自らの欲求を言語化して他者に要求する力は、自由競争で生きていく上でかなり有利な力だ。良し悪しを説くのは、結局価値観が合う相手の同意を得るか、そうでなければ価値観の押しつけでしかない。「そうは思わない」と一蹴されたら敗北するしかない。

 そんなことを考えていると、思う浮かぶ言葉がある。

 

——求めよ、さらば与えられん

 

 この言葉の真意はわからないし、どういうニュアンスで広まっていたのかも知らない。しかしキリスト教の繁栄を見ると、この言葉が人々に欲求を明確に言語化して他者に求めていく方向へ導いていたように思えてくる。あるいは聖書の中の膨大な言葉の中でも、特にその言葉を強く覚えて意識していた人々が繁栄したから広まったのかもしれない。

 

 一方で不快感の原因を他人に求めてしまう人間の性質について考えると、かつて社会としてはさほど悪いことではなかったのかもしれない。なぜなら自分の問題を解決しても自分しか改善しないが、それを自分以外の不特定多数の改善点として転化すれば、多くの人が改善点を認識できる。改善がスケールしていくので、小さな集団での人間関係ではどうか知らないが、社会全体としては良い方へ向かっていくように思える。そう考えると、欲求にフォーカスして自分だけ得していくことは、人間社会に対する一種のハックなのかもしれない。 

 とはいえ、社会のために個人が生き辛さを感じてしまう世の中は嫌だ。こんなに情報が共有される時代なんだから、いちいち人のせいにしなくても改善点を共有できるはずだ。これからの時代は個人が生きやすく、そしてたくましく生きようとすることが否定されない社会であるべきだし、僕はそれを求める。

 だから自分に対しては躊躇せず何度でも問うていきたい。

 

——欲求にフォーカスしているか?