面白さの構造

 

 ——「面白さ」って何だろう?

 

 さあ、なんと答える?

 そもそもあなたは答えを出せる?

 もし何らかの答えを出せる人がいるならば、是非ともブログやブックマークコメントかなんかに書いて欲しい。他の人がどう考えているかをすごく知りたい。

 

 僕の出した答えはこうだ。

面白さとは意識の加速度である。

 これは理論というよりも、「面白さ」なるものを感覚的に理解・構築するための表現だ。だから「面白さ」の全貌を体系的に秩序立てる力は弱いかもしれないが、人によっては「加速度」という言葉を見ただけで「なるほど」と思うかもしれない。

 僕はこれに関わる理屈を自分の中で「加速度理論」と呼んでいて、大抵のコンテンツの「面白さ」は「意識の加速度」という観点で説明することが出来ると思っている。

 

「意識の加速度」とは

 そもそも加速度というものは何かというと、それは読んで字のごとく、加速の度合いである。"G"という単位で表されたりもする。

 加速度そのものについてはまあどうだっていい。

 

 重要なのは加速度を感じる時の感覚である。

 ——電車が動き出す時と止まる時のあの感覚。

 ——高速エレベーターのぞわっとするあの感覚。

 ——足を踏み外してぐらりとする時のあの感覚。

 こういったものが加速度を感じる時の感覚である。体がある状態から別の状態へ短時間で変化することで、ある程度の加速度が生じ、それを感じているのだ。

 

 そしてそして似たような感覚を体ではなく、コンテンツの受け手の意識の上で生じさせることで「面白さ」が生じる。

 しかし、これだけではまだまだ説明不足だろう。

 

そもそも意識とは

 この文章で言っている「意識」というのは、「意識が向いている」なんていう時の「意識」と同じだ。

 意識は基本的に一つのものにしか向けられない。そして常に連続性を持っていて、一つの流れの上に乗っかっている。

 その流れを誘導するためのレールのようなものがコンテンツの持つ文脈である。だからコンテンツにのめり込んでくれさえすれば意識は文脈に乗って流れていく。そうして流れていく意識の加速度が「面白さ」となるのだ。

 

意識の加速度を生じさせるためには

 ここまでの話はあくまで「加速度」という表現についての説明であり、それ自体は重要ではない。重要なのはここからの、いかにしてそれを生じさせるかということである。

 当然ながら文脈上を意識がただ流れていくだけならば電車なんかと同じで、体感する加速度は微々たるものだ。せいぜい最初と最後に「おっ」と思うだけで、あとは大して加速度を感じない。

 ただ真っ直ぐな文脈で充分な「面白さ」を感じさせるためには、スペースシャトルの打ち上げくらい猛烈に加速し続ける必要がある。だがコンテンツの受け手が情報を認識する速度にも限界があるので、加速度はすぐ頭打ちになり、真っ直ぐな文脈で面白いだなんてのは現実には起こりえない現象だと思っていい。

 

 でははっきりと感じられるほどの加速度はどのようにして生まれるのか。

 それはこの三つの要素から成り立っている。

・レギュラー文脈

・イレギュラー文脈

・リンク

 この三つが組み合わさって「面白さの構造」を成しているのだ。コンテンツがコンテンツとして成立するための条件だと言っても過言ではない。

 

 このどれもが欠けてはならない要素であるが、逆にこの全てが充分ならば、たった一言でも面白くもなる。

 以下にこれらの要素ついて詳しく述べていきたい。

 

レギュラー文脈とイレギュラー文脈

 加速度が変化の度合いである以上、生じるためには二つの状態が必要となる。基本となる状態と、それとは違う状態である。

 それがレギュラー文脈とイレギュラー文脈である。コンテンツにおいて基本となる状態がレギュラー文脈で、それとは違った状態なのがイレギュラー文脈である。

 そしてレギュラー文脈に受け手の意識が乗っかっている状態でイレギュラー文脈に意識を引っ張ってくることが出来れば、「意識の加速度」が生じ、「面白さ」が生じるのである。

 文脈をレールに喩えるならば、電車は加速し続けるより、急カーブしたりいきなりレールチェンジしたり脱線したりするほうが乗客により強い加速度を体感させられるのだ。加速度の方向は関係ない。強い加速度なら前後だろうが左右だろうが、それが「面白さ」なのである。

 

リンク

 レギュラー文脈からイレギュラー文脈へ変化させれば面白い。実にシンプルなことである。

 しかし、ただイレギュラー文脈に変えればいいというわけではない。受け手の意識がしっかりとイレギュラー文脈に乗っかってくれないといけないのである。

 多くの人が経験しているだろうが、「ん?」という風につっかえてしまうものは面白くないのだ。そういったものは受け手の意識がイレギュラー文脈に上手く乗っからず、レギュラー文脈に乗っかったままになってしまっている。

 そうなってしまわないために、レギュラー文脈とイレギュラー文脈との間に何らかの関連性がないといけない。いわばレギュラー文脈とイレギュラー文脈の間の架け橋である。

 それこそが、リンクという要素なのである。

 このリンクが強いほど、よりスムーズに受け手の意識をイレギュラー文脈に移動させられる。

 

三要素の例

 このように「面白さ」とは三つの要素で成り立っているのだが、抽象的な話に終始しているとわかりづらいだろうから一度立ち止まって具体例を挙げたい。

 

 シンプルなほうがわかりやすいので、たった八文字の「布団がふっとんだ」という駄洒落を見てみよう。この文章で言っている「面白さ」は「笑い」に限ったことではないのだが、説明する際には「笑い」が一番わかりやすい。

 この「布団がふっとんだ」という駄洒落においてレギュラー文脈は何か。それは布団である。布団およびそこから想起される状況がレギュラー文脈となっている。

 ではイレギュラー文脈は何か。それは「ふっとんだ」という状況である。レギュラー文脈である「布団」とは明らかに方向性の違うものとなっていて、レギュラー文脈の時点では普通想起されないものだ。

 ではリンクは何か。それは「ふとん(ふっとん)」という音韻だ。このリンクによって二つの異質な文脈が連結され、この駄洒落が成り立っている。

 

「布団がふっとんだ」自体は別に大して面白くはないのだが、理由もなく駄洒落の代表格になったわけではないはずだ。おそらく駄洒落の中で相対的に見れば、布団がひゅーんとふっとんでいくイレギュラー文脈の異質さが際立っており、その点で相対的に優れているからだろう。

 

 一方で「アルミ缶の上にあるミカン」は違う部分で相対的に優れている。

 レギュラー文脈は「アルミ缶」、イレギュラー文脈は「ミカン」だ。「アルミ缶」と「ミカン」は異質なものではあるが、アルミ缶の上にミカンがあることは別にありえないことでもないので「ミカン」の異質さが際立っているとは言えない。

 しかし、リンクはどうだろうか。リンクは「あるみかん」という音韻であり、完全な一致度でありながら長さもあり、相対的に難易度の高いものであることは容易に想像できる。したがってこの駄洒落はリンクが優れているために有名な駄洒落としての地位を獲得しているのだろう。

 

 余談だが、受け手の反応はともかく、作り手に駄洒落が好まれる理由の一つには、リンクが音韻と決まっているので三要素を揃えるのが比較的容易だからなのかもしれない。

 

大きな「面白さ」を生じさせるには

 それではさらに進めていこう。

 三つの要素を揃えて「面白さ」を生じさせたとしても、それがあまりにも小さければ意味がない。より大きな「面白さ」を生じさせなければならない。

 それはつまりより大きな加速度を生じさせるということであり、そのためにはより短時間に変化させるか、より大きく変化させるかというのが主な方法だ。

 具体的には、レギュラー文脈からイレギュラー文脈への意識の移動をリンクを強くすることでよりスムーズにするか、レギュラー文脈とイレギュラー文脈をより異質なものにして意識の移動距離をより長くする必要があるということである。

 

リンクを強くする

 リンクを強くすることによって受け手がイレギュラー文脈を一瞬で受け入れ、より強い加速度が生まれる。

 リンクを強くするというのは二つの文脈の関連性をより強くするということであるが、そのために二つの文脈を似たものにしてしまったら本末転倒だ。変化の幅が小さくなれば加速度も小さくなるからだ。あくまで二つの文脈の質的な距離を保ったままで、よりリンクを強くするのだ。

 

 ただし、リンクが強くなければ面白くならないのかというと、そうではない。リンクは受け手の意識をイレギュラー文脈に乗せやすくするためのものであり、リンクが弱くても勢いや表現力で意識を強引に引っ張って来られれば加速度が発生するので面白くなってしまう。

昔々、あるところにお爺さんとお婆さんがいました。

 

_人人人人人_

>  突然の死  <

 ̄Y^Y^Y^Y^ ̄

 こんなリンク皆無のどうしようもないネタでも、うかつにも意識を引っ張られてしまえば笑うことだってあり得る。おそらく強引な表現により、表現自体がリンクとなってしまう現象が起こっているのだろう。

 ただ、加速度を生むことに成功しても、リンクの強さによって受け手が抱く印象は大きく変わってくる。

「笑い」を例にすれば、以下の様な差が出てくる。

・リンクが強い→秀逸

・リンクが弱い→シュール

・リンクが不明→意味不明 

  先ほどの駄洒落だと、リンクが弱めの「布団がふっとんだ」はどちらかと言えばシュール、リンクが強い「アルミ缶の上にあるミカン」はどちらかと言えば秀逸な印象を受ける。

 だからあえて弱めのリンクで強引に攻め続けるのもアリっちゃアリなのである。

 しかしリンクが弱いほど人を選ぶネタになってしまうので、シュールさや意味不明な感じを狙うのでなければ、なるべくリンクは強いものにすべきである。

 

 情報の伝達速度を高める

 意識がイレギュラー文脈へ移動する速度を高めることでより面白くすることができるのだが、受け手に情報が伝わる速度を高めるという方法もある。

 単純な方法としては、情報伝達の言葉等を短くすることだ。伝わりにくくならず、情報量も減らさず、なおかつリンクも弱まらない範囲で短くできるなら、短くしたほうがいい。

 

伏線回収やどんでん返し

 伏線回収やどんでん返しというのも、情報の伝達速度を速める類のテクニックである。

 簡単に言えば小さな情報に大きな情報を含ませることで、一度により多くの情報を受け手に与えているのである。それによりイレギュラー文脈へ意識が移動するのにかなりの情報が必要だとしても、短時間で実現しているのである。

 なぜ小さな情報に大きな情報を含ませることが出来るのかというと、それは小さな情報が新しい情報じゃないからだ。既に出ている情報であるから、情報が示す意味の他に、それがコンテンツ内で関わった様々な情報が付帯しているのである。その付帯した情報が大きな情報となるのである。

 内輪ネタほど面白くなるものこれと同じであり、コンテンツ外で付帯した情報が多い情報というのが内輪ネタだ。もっとも、付帯した情報がコンテンツ外に由来しているのでホワイトリスト的に人を選ぶネタとなってしまうのは言うまでもない。

 

 伏線回収やどんでん返しにはこれよりもさらに強くしたパターンがあるが、それに関しては後述する。

 

天丼

 お笑いの「天丼」というテクニックもやはり同様の類である。これは既に使ったイレギュラー文脈を、違う場面でも使うことである。

 ここで重要なのは、イレギュラー文脈は同じでも、レギュラー文脈は前に使ったものとは違ったものにするという点である。

 既に受け手の意識が乗っかったことのあるイレギュラー文脈を使うことで、別のレギュラー文脈とそのイレギュラー文脈がかなり異質でリンクも弱い場合でも、受け手の意識を引っ張って来やすいのである。

 このテクニックの成功率は、イレギュラー文脈に最初に意識がどれくらいしっかり乗るかで変わってくる。最初にしっかり乗るほど、二回目以降もスムーズに乗ってくれる。だからお笑いのネタ構成の常套手段である、序盤でウケたネタを「天丼」として終盤に使うやり方は、実に理にかなったものである。

 フリートークでも有効で、前にウケたネタのイレギュラー文脈を、違うレギュラー文脈でも使えばそこそこの打率となる。これは話が面白い人ならば大抵の人が自然と使っているテクニックでもある。

 しかしいくら「天丼」が有効なテクニックでも、ウケなかったネタならば、「天丼」を繰り返しても挽回は難しい。ほとんどはリンクの機能不全による意味不明な一人よがりで話し手だけが笑うという、悲しい結果に終わるだろう。

 

「天丼」、すなわち違うレギュラー文脈に同じイレギュラー文脈を使うテクニックは、「笑い」の領域以外でもよく使われる。

 伏線回収やどんでん返しも、このパターンによって行われることがある。ただ、これは同じ展開を繰り返すことになるので、長編小説等の複雑な文脈をなす媒体においては、最後のオチとして使うと陳腐化しやすい。むしろ絡み合った話を一気に単純化することで急展開させて話の山場に向かわせるような、力技として使うのがベタである。

 最後のオチとして使えるような伏線回収やどんでん返しのパターンは後述する。

 

リンクの後出し

 通常は受け手がレギュラー文脈を認識し、リンクを認識し、イレギュラー文脈を認識することで意識が動く。しかし、イレギュラー文脈への移動を速めるためには、レギュラー文脈とイレギュラー文脈を先に認識させ、リンクを後から認識させるというのも有効である。そうするとリンクの認識速度が、イレギュラー文脈への移動速度となり、かなり加速度を付けられる。

 これはミステリー作品でよくある手法でもある。結果がどうなるか、つまりイレギュラー文脈で「面白さ」を作り出すのではなく、トリックや動機、つまりリンクで「面白さ」を作り上げるのである。だいたいの作品で登場人物が死んだ時に面白く感じるのではなく死んでから話が面白くなるので、むしろミステリーではこの手法が主流と言えるかもしれない。

 

 いわゆる「なぞかけ」というのもリンクの後出しで、こちらはかなり構造がわかりやすい。

 Wikipediaに載っている例で見てみよう。

「ミニスカート」とかけて、「結婚式のスピーチ」と解く。

  この場合リンクが重要な役割を担っているので、二つの文脈はさらりと提示されるだけだ。もちろん二つの文脈により質的な距離があるほうが加速度が付く。

その心は「短いほど喜ばれる」 

  これがリンクになっている訳だが、短く、そして遠いものを鮮やかに繋ぐような強いリンクほど一気に情報が伝わるため、面白くなるのである。

 

ツッコミの第一の役割

 日本のお笑いの特徴であるツッコミもリンクに関わるテクニックである。

 ツッコミというのは話を本筋に戻したり、主に話の進行させる役割を担っているものだが、そういう面の説明は割愛する。

「面白さの構造」という観点のみから見たツッコミの第一の役割は文脈間の距離の強調であり、これがツッコミの基本である。

 ボケとしてイレギュラー文脈が提示された時に、「こんなにイレギュラーなんですよ!」と受け手に示しているのである。「なんでやねん!」という代表的ツッコミもまさにシンプルにその役割を担っている。

 また、切り返しの得意ではない芸人はフリートークでいじらた時、無意識だろうが、咄嗟にとりあえずこの役割だけを担う言葉で場をしのぐことが多い。 つまりは「イレギュラーだ」ということをのみ示す言葉で、「えぇ〜!?」とか「おかしいでしょ!」とかそういったものである。これはなんとかツッコミを試みるが、最低限要求されるツッコミ役を演じることに精一杯で、そこから先を考えられていない、もしくは場が作るネタの全体像を把握出来ていないからである。

 とはいえ、即座にツッコミ役の立場を示せるというだけでも高いスキルが必要なのであり、普通の人は無難に切り返すことだけでも難しい。

 

ツッコミの第二の役割

 ツッコミが担える役割はこれだけではない。第二の役割としてリンクの補強がある。

 これは相手の情報に対し、大して情報を含んでいない言葉でなく、新しい情報を含んだ言葉を使うのである。そうすることで二つの文脈の架け橋であるリンクを補強し、場合によっては補強でなく新たなリンクを提示し、もう一本橋を架けてしまうのだ。切り返しの上手い芸人がよくやっているが、これはなかなかすごいことである。

 くりぃむしちゅーの上田がよくやるような「たとえツッコミ」というのも、もう一本橋を架けてしまう手法にあたる。「お前は○○か!」とツッコんだりする時に「○○」をボケに含まれる情報とは違う新しい情報を使うことで、レギュラー文脈とボケのリンクをもう一つ増やしているのだ。

 

 タカアンドトシの漫才のツッコミとして有名な「欧米か!」も、一回目に使う場合はこのリンクを補強するパターンである。

 普通のやりとりの中でいきなり「それでママのチェリーパイがさ」などと言い出す段階では、リンクが極めて弱く、イレギュラー文脈の異質さで笑いを誘うものだ。しかし「欧米か!」という突っ込みを入れることでそれがイレギュラー文脈だということを強調しつつ、単純な異質さでなく、「よくある日本と欧米の違い」という受け手の共通認識(要するにあるあるネタ)でリンクを強く補強している。

 ただ、二回目以降の「欧米か!」は少し異なる性質を帯びる。それについては後述する。

 

ツッコミの第三の役割

 ツッコミの第三の役割は、リンクの後出しである。これは前の二つとはかなり性質の異なるものだ。

 このパターンの場合、イレギュラー文脈であるボケがレギュラー文脈から遠すぎてかえって「ん?」となりがちだ。そのままでは意味がわからず、ミスとなる。しかし他の人が絶対に見出せないような関連性をツッコミ役が見出してツッコミとして提示する。こうしてかけ離れた二つの文脈の間に一瞬にしてリンクが生まれ、かなりの加速度が生まれる。

 このツッコミは爆笑問題等の仲良しコンビのフリートークによく見られ、彼らの武器となっている。

 ただし、これはとてつもなく難易度の高いツッコミで、やはりよほどの仲良しコンビじゃないとしょっしゅう繰り出すのは不可能だ。ましてや我々一般人には狙って出来ることでもないだろう。

 

ノリツッコミの役割

 お笑い技術論という訳でもないのにやたらツッコミに関する文章が続くが、ついでなのでノリツッコミについても言及しておこう。

 通常、レギュラー文脈からイレギュラー文脈に意識が移動する時の加速度が「面白さ」なのは今までに言った通りだが、ノリツッコミもその際の移動時間をより短くするための工夫だ。

  ノリツッコミはイレギュラー文脈が提示されても無理矢理にレギュラー文脈にとどまり、受け手が充分にイレギュラー文脈を認識したところでツッコむことでより文脈移動速度を高めているのだ。

 ここで重要なのはタイミングである。早いとノリツッコミをする意味がなく、キレの悪いツッコミで終わる。ツッコミのキレが悪いと、意識の加速度も落ちる。反対に遅くても、受け手の意識は既にイレギュラー文脈に移ってしまい、意味がなくなる。もたもたしている間に意識がじわりとイレギュラー文脈に移るので加速度はやはり小さくなる。受け手の意識がイレギュラー文脈に自然に移ってしまうギリギリのところでツッコめば効果は最大となる。

 

 この文章は「面白さの構造」であるので、ノリツッコミのような一見マニアックなテクニックも「笑い」に限った話ではない。「笑い」において成り立つ「面白さの構造」は、他でもその「面白さの構造」が成り立つ。

 例えばラブコメで考えるなら、最初に嫌いだった相手を主人公が好きになり始め、それを受け手に気づかせるが、主人公には自覚させず、受け手がじれったくなるギリギリのところのエピソードの山場で一気に自覚させるという手法がノリツッコミと同じ構造である。

 ただ、「笑い」において「面白さの構造」が成り立つかどうかは「笑うか笑わないか」という半ば生理的な現象として明確に表れるので、やはり「笑い」が一番例示しやすい。そして手法も構造が明確なものが多く、説明しやすい。

 

リンクの天丼

 普通の「天丼」は、異なるレギュラー文脈においても同じイレギュラー文脈を使うことである。しかし、ネタというのは二つの文脈だけから成るのではなく、そこにリンクを加えた三つの要素から成る。

 したがって異なるレギュラー文脈とイレギュラー文脈において同じリンクを使うということも可能である。

 その実例こそが、二回目以降の「欧米か!」である。

 一度使ったリンクなので、受け手の意識はスムーズに移動しやすい。それにより二つの文脈の質的な距離を広げてリンクがやや強引になったとしても、意識を移動させやすい。また、そのリンクは一度通った道なので移動速度も速くなる。

 

 この構造は最後のオチとして使うような、伏線回収やどんでん返しのより強いパターンにしばしば用いられる。単に一度使った情報をもう一度使うのではなく、一度リンクとして使われたものを、異なるレギュラー文脈とイレギュラー文脈のより重要な場面でもう一度リンクとして使うのである。

 序盤で本筋と関係のない問題を解決するための糸口として出たものを、終盤の本筋の問題を解決するための糸口として使ってみせる手法がまさにそれである。

 鮮やかな伏線回収やどんでん返しが成功するかは、使用した情報の重要度ではなく、主にこの構造を持っているか否かで決まると言っても過言ではないだろう。

 

事実という最強のリンク

「面白さの構造」が成り立つためには、リンクが必ずなくてはならない。

 しかし、これといってリンクを作らなくても強力なリンクが最初から存在する場合がある。それが「事実」というものである。実際のレギュラー文脈から実際のイレギュラー文脈に変化したのなら、両者が関連性を失うことなどないからだ。だから受け入れがたい事実でない限り、受け手の意識はスムーズにイレギュラー文脈に移り、加速度が生まれる。

 そして事実というコンテンツにおいても、伝聞より直接見るほうがイレギュラー文脈への変化をより強く証明するため、強いリンクとなる。

 たとえば、同じノンフィクションにしても、伝聞に近い文章表現よりも、直接見るのに近い映像表現のほうがより強いリンクとなる。もちろん文章のほうが表現の幅が広がるのだが、全て映像に収められるならば映像のほうが強い。

 リンクが強いということは、イレギュラー文脈がどれほど異質であっても「面白さの構造」が成り立ってしまうということだ。その際、レギュラー文脈は日常や常識が担う場合が多い。だから極めて異質な実際のイレギュラー文脈、その一点さえ提示するだけでも面白いコンテンツが成立する。

 そしてまさにそういった方向に純度を高めたコンテンツが、ニュースやハプニング映像でなのである。

 

 ニュースやハプニング映像でなくとも、映像内の人物がレギュラー文脈を担っているような場合であれば、その人物がイレギュラー文脈を作り出すだけで「面白さの構造」が成り立つ。なぜならその人物の動作自体がリンクになるからだ。

 

二つの文脈の距離を長く

 より大きな加速度を生じさせるために必要な、文脈間を移動する時間を短くする方法については一通り説明したので、今度は文脈間の移動距離を長くする方法について述べていきたい。

 

 二つの文脈がより離れるように、一気に両方の位置を通常考えられる位置よりも離すことができればそれに越したことはない。ただ、人は考えようと思った時には一度に一つのことしか考えられない。おまけに「面白さ」は一つの文脈だけでは決まらない。

 だから意識的に何かを思いつこうとしたら、先に思いついた文脈に対して、後からもう一方の文脈をより離れるように考えていくしかない。

 という訳で以下にそれぞれの文脈を後から考えていく場合の例を挙げる。構造としては距離が広がればどちらの文脈が後かという点は関係ないのだが、何かを考える際にはやはりどちらが後に来るかで大きく変わってくるからだ。

 

イレギュラー文脈を後から考える

  これは非常にシンプルである。既に決まっているレギュラー文脈に対し、イレギュラー文脈をより離れた場所に置くするというだけだ。簡単に言えば相対的により異質なものを持ってくるのだ。

 とはいえ、簡単に言えても簡単に出来ることではない。

 強いてポイントを挙げるとしたら、イレギュラー文脈自体の持つ異質さや面白味で考えないことだ。コンテンツの「面白さ」は構造の中にある。だからレギュラー文脈との距離、そしてリンクの強さで考えるべきであり、場合によっては何の変哲もない事柄でも強力なイレギュラー文脈と成りうる。

 

 イレギュラー文脈をレギュラー文脈からいかに遠いところに置くかによって「面白さ」が決まってくる代表的なものが、大喜利である。

 具体例は「ボケて」にいっぱいあるので勝手に見て欲しい。お題画像の時点でちょっと面白いものもあるが、基本的には上手くリンクを作り、レギュラー文脈である画像から、いかに遠いイレギュラー文脈へ持っていくかが肝になっている。

 ただ、秀逸さを感じるネタほど、リンクの強さに起因する「面白さ」の割合が多い。それは前述したように、リンクの強さからくる印象の差がストレートに出ているからである。

 

レギュラー文脈を後から考える

 表現したいものとして思いついた時、それがイレギュラー文脈に来るべきものであることもよくある。例えばボケであったり、コンテンツの中核をなす部分や、クライマックスの展開や結末などだ。

 するとそれをより効果的に、つまり面白く感じさせるためには、土台となるレギュラー文脈をそこから遠いものにするとより面白くなる。

 よくある方法だと、斬新な設定を基本の状態とするやり方だ。そうすることで大抵のイレギュラー文脈との距離は自ずと広げられる。ただし、その「斬新さ」が一番難しかったりする。

 方法はそれだけではない。あくまでイレギュラー文脈との距離で面白さが決まるものなので、距離さえ広げられれば斬新でなくてもいい。

 例えばコントのレギュラー文脈に葬式シチュエーションを設定してみるような方法だ。

 もはやこの時点で「あ、これはずるいな」と感じた人も多いだろう。しかし葬式自体が面白い訳でもないし、斬新な設定であるはずもない。

 ではなぜこの方法がずるいと感じるのかというと、面白くなりやすいということを経験的に知っているからだ。

 コントであるからにはイレギュラー文脈であるボケはおかしさや滑稽さを表現するのがほぼ決まっている。すると葬式シチュエーションという極めてシリアスなレギュラー文脈は、普通のコントのシチュエーションと比べ、ボケであるイレギュラー文脈との距離を広げやすい。

「シリアスな笑い」と言われるような、シリアスな雰囲気なのに笑ってしまうパターンもここに含まれる。

 ただ、これも「笑い」の領域に限った話ではない。他の領域の例では、小売店販売員のあるあるネタを設定の中心に据えた時に、舞台をごく普通の現代でなくあえて魔法ファンタジーの世界にしてしまうような手法がちょうどこれにあたる。

 

 不謹慎なネタほど妙に面白くなってしまうのも同様の理由だろう。もちろん、引いてしまうほど不謹慎だと意識をイレギュラー文脈に引っ張ってくることも出来ず、加速度は生じない。

  

レギュラー文脈を意識になじませる

 レギュラー文脈をイレギュラー文脈に受け手の意識を移動させればいいのだが、そもそもレギュラー文脈にしっかりと意識が乗ってないと上手くいかない。しかも単に乗ってればいいという訳ではなく、よくなじんでいるほうがいい。

 イメージとしては、電車の乗客に慣性が付くほど、急停車や急カーブで乗客が加速度を体感するのと同じようなものだ。

 

 このレギュラー文脈を受け手の意識になじませるというのは軽視してはならない。小説でも何でも、最初に丁寧な描写をしっかりと行うのはほとんどレギュラー文脈をなじませるために行うものである場合が多い。時代を反映したコンテンツの強みも強みもここにある。

 また、人に物事の面白さを伝えるのが下手な人は、リンクやイレギュラー文脈ばかりを伝えてしまっていることが考えられる。面白くなるポイントは確かにそれらなのだが、それはレギュラー文脈あってこそであり、まずは丁寧にレギュラー文脈を伝えること必要なのである。

 

ボリュームのあるコンテンツの場合

 ボリュームのあるコンテンツの場合、レギュラー文脈とイレギュラー文脈を一組作っておしまいという訳にはいかない。複数の組み合わせを連続させていく必要がある。

 漫才のようにツッコミでいちいち元の文脈に戻すようなコンテンツでない限り、レギュラー文脈がイレギュラー文脈に変化したら、そのままイレギュラー文脈で進んでいく。するとイレギュラー文脈にも受け手の意識がなじみ始め、それがレギュラー文脈となる。そうなったらまたイレギュラー文脈に変化させ、この流れを繰り返す。

 ストーリーのあるコンテンツは単純化してしまえばだいたいこのような感じで構成されている。

 

 また、コンテンツの受け手が「続きを知りたい!」と思うように仕向け、コンテンツの先へ先へと進ませるテクニックを「引き」と言う。

 これはその時点の展開、つまりレギュラー文脈でイレギュラー文脈の存在を示唆することである。どういうイレギュラー文脈かを示唆するのではない。ただその先にイレギュラー文脈が存在しているということを強く示唆するだけだ。

 したがって引きも含めた流れを示すと以下となる。

 レギュラー文脈の提示→なじむ→引き→イレギュラー文脈に変化→なじんでレギュラー化→引き→イレギュラー文脈に変化……(以下繰り返し)

 

余談

 面倒になってきたので箇条書き。

 

ニコニコ動画のコメントで笑ったりしてしまう場合があるのは、動画というレギュラー文脈において、コメントが大喜利的にとんでもないイレギュラー文脈をもたらすことがあるからだろう。一体感なんていうのもニコニコ動画の面白さに寄与しているが、一体感で爆笑する人はいない。

 

・なぜイレギュラー文脈への意識の移動が「面白さ」をもたらすのかという問題になると、ちょっとよくわからない。たぶん人の学習本能の快楽とかそういうことだろうと思っているが、そこらへんの考察を誰か書いてくれると嬉しい。

 

・コンテンツの受け手の理解力が子供のように低い場合は、とにかくリンクを強めればウケる。イレギュラー文脈が全然イレギュラーな感じでなくてもいい。低レベルという誹りを恐れないなら、リンクが「あたりまえ」なんていうとんでもないものでも全く問題はない。

 

・「面白さの構造」は構造であるので、「エロス」という領域だろうとこの「加速度理論」は通用する。 「エロス」における「面白さ」は当然「エロさ」となる。

 

・ツッコミは文脈を往復する効果もあり? しかしもうお笑いについて考えるのが嫌になってきた……

 

・本当は「アプリメーカー」を引き合いに出しながら説明する予定だったけど、すっかり忘れてた……

「アプリメーカー」ってのはあれです、アドセンス貼れちゃう診断メーカーみたいな。

 

面白さの構造を見出す 

 あとは実際のコンテンツを見て「面白さの構造」を見てもらいたい。

 とりあえず「面白さの構造」については一通り説明した。これであなたはもう構造から生まれる加速度で「面白さ」を考え、そして作り出していくこの「加速度理論」の使い手だ。必要な知識は既に持っており、見ようと思えば一応は全てのコンテンツに一定の構造が見えてくるだろう。

 もしまだピンと来ないという人がいたら、以下のページを見て欲しい。

このgif画像で笑わなかった奴いたら死ぬ

 どれも実際の映像なのでリンクは主に画面の中心人物の動作が担っているが、レギュラー文脈、イレギュラー文脈、そしてリンクから成る「面白さの構造」が見えるはずだ。

 

 また、「面白さの構造」は相対的なものである。全てはそれぞれの要素の相対的な差で決まる。

 だからレギュラー文脈を受け手のニュートラルな意識に設定すれば、イレギュラー文脈の一手で「面白さ」 を生み出すことが出来る。そういうところまで考えると、より様々な場所に「面白さの構造」を見出せるはずだ。

 例えばこの文章の冒頭だ。もし「面白さって何だろう?」という質問を見てその答えを考えてしまったり、答えを知りたがったりすれば、その時点で意識が引っ張られて加速度が生じてしまうのだ。大きな加速度ではないのでそれだけでは特別面白くはならないが、その一手で多少の「面白さ」が生まれている。こんな長い文章をここまで読んでしまったような人なら体感しているはずである。

 

構造であること 

 まだまだ細かいことをいろいろ言いたい気持ちもあるが、ここらへんで終わりにしようかと思う。きちんとまとめたこともない漠然とした考えを投稿フォームに直接綴っていくという作業に、ちょっと疲れてきてしまったのだ(笑)

 しかし一方で、書きすぎてしまったという気もする。

 なぜならこれは構造の話なのである。だから構造さえ提示できれば、その表層としての例を挙げる必要などないと言えばないのだ。当初もそういう予定だった。筆がよく進むという投稿フォーム直打ちのメリットを強く感じながら書いていたが、今となっては文章の流れが制御不能になりがちというデメリットをひしひしと感じている。

 

 何度も繰り返すが、この「加速度理論」はあくまで構造の話である。したがって、「笑い」のような一領域で成立している「面白さの構造」でも、その構造は「面白さ」の存在する全ての領域において通用すると考えている。そして「面白さ」が「面白さの構造」から生まれている以上、その構造さえ作ればコンテンツは面白くなる。

 だからもしあなたが何らかの領域で「面白さ」を生み出そうとするなら、この「加速度理論」も少しは役に立つのではなかろうか。

 

  最後に一つ言っておくが、「加速度理論」もまだまだ不完全で曖昧だ。ずっと漠然と考えていたことではあったが、大部分がこのブログに書くために数日でまとめたものに過ぎない。

 だからこれを読んだ人は是非とも自分の考えをどこかに少しでもいいから発信して欲しい。僕には知りたいことが山ほどあるのだ。

 

 さあ、もう一度聞こう。

 

 ——「面白さ」って何だろう?