ムードの奴隷になっちゃ駄目だ
誰かの記事をきっかけにして書くのはなんとも受動的で楽だ。でもそれは「自分で考えた結果」を書いているのではなく、「誰かに考えさせられた結果」を書いているだけだ。つまりは思考の主導権を他者に奪われた状態であり、いわば思考の奴隷に堕してしまっている。自分なりの答えを出したところで、その思考の土台となるムードを他者からもらっていて思考の農奴みたいなもんで、やっぱり奴隷だ。
この僕がいつまでも奴隷でいるのか? それは愚問に違いない。
というわけで今日もヒャッハー! 奴隷記事だぜ!
読んだ。
この記事の細かい内容に絡んだことは書かないので、今回は要約もいらないだろう。僕はただ、「街頭募金が嫌いだ」ということを言いたいだけだ。
なぜ街頭募金が嫌いなのかというと、大して効果がないからだ。そして正確にいえば街頭募金というアイディアが嫌いだ。
(誰かを救うためでなく、「可哀想な人を救う」というポーズを取りたいがためにやっている街頭募金はただの下衆であり、ここで言う「街頭募金」に含まない)
街頭募金で得られる資金なんてたかが知れているだろう。救いたいと強く願う理由があり、また街頭で叫べるくらい立派な意義があるならば、それをどっかの社長に説いたほうがはるかに効果がある。
ネットのおかげで「どっかの社長」と接触するためのコストは、街頭で募金活動するよりも圧倒的に低い。ネットで連絡先を公開している社長も多いし、大きくない会社なら代表電話番号に掛ければすぐ見ず知らずの社長と話が出来る。そういう感じで僕は何人かの社長と無理矢理コンタクトを取ったこともある。よくある営業電話でないならば無防備にもみんなとりあえずは話を聞いてくれるものだ。
具体的な救う対象があるならば、ネットのオープンさを利用する手もある。社長個人のアカウントでソーシャルな活動をしている人も多い。徒党を組み、社長へのお願いが人目に触れるように仕向ければ、相当断りづらくもなるだろう。お金の使い道が透明化されていたりして想定されうる落ち度をなくしておけば、むしろ断った金持ちの方が悪者になるのでお金を出してくれる人は必ずいる。
もちろん、そういった各個撃破のゲリラ戦術を駆使しても、十人に一人くらい行動してくれればいい方である。しかし街頭募金よりは相当に効率がいい。お菓子食べながらでも、一日使えば百人くらいを攻めることが出来る。一日中立って叫んでも街頭募金だと集まって数万程度が関の山だろうが、このやり方で社長数人を動かせれば数万なんて軽く超えるだろう。
募金という手段に限定するとしても、僕だったら街頭ではやらない。
まず駅のような人通りの多すぎる場所を避ける。群衆に対してではなく、個人に対して呼びかけないと無視されて終わる。もし駅で誰かが何かを落としても拾ってくれる人は稀だが、その場に二人しかいなければ多くの人が拾ってくれるのと同じだ。
そして地元でやらなければいけない理由もないので、白金あたりの住宅街の付近にあるランクの高いスーパーの近くでやる。そこで買い物袋をぶら下げているのにオシャレしているようなマダムに声を掛ければ、駅で叫ぶよりもとんでもなく楽だろう。
もしくは団地の周辺の公園を午前中に回る。ママ友の輪に入って頼めば、率先して断る人も少ないだろうし、見栄もあって誰かが募金してくれる確率は高い。一人が募金してくれればみんな募金してくれるから、これも楽である。恵まれない子供を救う類の募金ならなおさらである。
街頭募金を見る度に、こういうことが頭を巡って嫌になる。「上連中も下の連中も何考えてそんなことやってんだ」と問いただしたくなる。もしそれが募金詐欺だったとしても、「リスクの割に儲けが少なすぎるだろ!もう少し頭使え!」と言いたい。
当然ながら、ここで挙げたようなやり方には様々な心理障壁があるだろう。
しかし、「救う」という明確な目的があるならば、別に構いやしないはずだ。そんな壁、ちょっとした段差程度のものだろう。
単なる部活動とは違ってこういう問題に関しては結果が全てであり、「募金が集まらず恵まれない子供たちは死んでしまったが、声が枯れるほど彼らが頑張ったので良しとする」という考えが付け入る隙などない。命をネタにする以上、金集めてナンボ、助けてナンボである。
企画者だろうが末端の人間だろうが、学生だろうがボランティア活動の一環だろうが、救われる命にそんなことは関係ない。救いたいと願って行動するなら本当に救える行動をすべきなのだ。
とはいえ、街頭募金もそれを実行する彼らも嫌いだが、彼らの善意までは否定できない。何もしないよりはましだし、彼らは見るからにいい人そうであり、一生懸命であり、街頭募金しか手段を思いつかなかっただけのように見えるからだ。流石に知恵が働かなかった善意までも否定する気にはなれない。だから始めちゃった街頭募金に関しては頑張ってやってほしい。
ただ知恵が働く方が断然好きなのは言うまでもない。電気のいらない冷蔵庫やどんな水も飲料水に変える装置、そういった貧困を救うための画期的なアイディアを目にする度にワクワクする。そしてウェブ研の活動方針だってネットによる娯楽・教育・富の再分配だ。だから余計に「救えない善意」がもどかしい。
「救えない善意」という考え方は僕の喉元に常に突き付けられている刃でもある。僕が新しいアイディアを出せなくなった時、そいつは僕は切り裂くかもしれない。
彼らが街頭募金なんていう行動を選択しているのは、雰囲気に流されているからだろう。「お金を集める、じゃあ募金だ」というムードの奴隷なのだ。学校の活動なら「奉仕活動、なら募金だ」という感じだろう。そして「募金を呼びかけるなら人通りの多い駅などの場所」といった具合にどんどん漠然としたムードによって行動が定められていく。
それではいけないのだ。目的を実現するためには忍び寄るムードに反抗しなければならない。目的があるならば、ムードが用意した思考の土台で戦っちゃ駄目なんだ。
これはどんな領域でもそうだ。就活だって創作だって同じだし、ブログだって同じだ。僕らは往々にしてムードに隷属した状態で悩んでいる。それはくだらないことだ。そういう悩みは基本的にムードが孕んでいる構造的欠陥であり、自分自身の悩みとは違うからだ。そこから離れれば悩みも消える。
ムードが何なのかを見極めるのは難しいことだが、ほとんどの場合、ムードに抗わずに何かを成し遂げる方が難しい。
僕はいろんなことでいろんなことを成し遂げたいとずっと思っていた。だから、多くの場所でムードと衝突して生きてきた。ムードから逃れたものも沢山あるけど、まだまだ僕はいろんなムードの奴隷だ。やつらはいつだって僕を絡め取ろうと忍び寄る。
かといって僕はいつまでも奴隷でいるのか? それは愚問に違いない。
どんな話にもオチを付ける方法
読んだ。
内容を要約するとこんな感じだ。
・話にオチを付けるのが苦手
・オチっていうのは一番伝えたい内容のことではないか?
・即興小説トレーニングやりたい!うわぁぁめっちゃやりたい!超やりたい!誰か助けてくれ!やりたすぎて死んでしまう!
もしかしたら少し解釈にズレがあるかもしれないが、シンプルな内容だし、だいたいあってるはずだ。
まず言っておくが、オチがオチであるかどうかに内容なんて関係のないことだ。オチは別に結論である必要はないからだ。なんだってオチとして採用すればオチであり、オチはあくまでポーズなのだ。読者が「終わりなんだな」と思ってくれればなんでもいい。
だから例えばウンコの話を書き連ねた最後にいきなりこんな文を加えてシュールに終わらせてもいい。
そんなことを考えていたら、ひやりとした夜風が頬をなでた。今年の冬は冷えそうだ。
もしくは、
なんだかカレー食いたくなってきた!
と馬鹿みたいに終わらせてもいい。
いきなり〈おしまい!〉と書いたっていい。
もうなんだっていいしどうだっていい。
普段の会話で「で?」とか言われたりする人も、内容に問題があるわけではない。話の途中と話が終わった時の声のトーンが同じだからそうなる。話が終わって話すのをやめても、聞き手はまだ続きがあると思っているのだから、続きを促されるのも当然だ。
そういう場合でもとりあえず声のトーンを落として「まぁそういうわけなんだよ」とか適当に言っとけば、内容が滅茶苦茶でも論理的じゃなくても伝える順番がデタラメでも、「で?」と言われることなんか滅多にないはずだ。
もちろんオチの上手い下手はある。しかし、それも構造的な問題であり、内容によって決まるものではない。
一番オーソドックス構造は、最初に戻るというものだ。ブログだとタイトルか冒頭の言葉で締める感じになるだろう。話の途中の部分でもいいが、タイトルか冒頭がやはり一番きれいにオチが付く。
「どんな話にもオチを付ける方法」というタイトルならば、最後のほうで取って付けたように「そしてやっぱり何よりも大切なのは、あなた自身の気持ち。あなたがオチだと強く思えば、それがオチになるのです」みたいなくだらない綺麗事をほざいてから、
それこそが、どんな話にもオチを付ける一番の方法です。
とタイトルの言葉を使って締めちゃえば一応綺麗なオチの構造が出来上がる。内容としては「なんじゃそりゃ!」というものだから腑に落ちないが、話はオチる。最初に戻れれば何でもいいのである。
冒頭で挙げた「おちが付けられない。 」も、言いたいことだけ言ってろくにまとめないで、
……ああ、今日もおちが付けられない。
で締めちゃえば「それがオチやないかーい!」と突っ込まざるを得なくなるくらいオチが付く。
最初に戻る方法というのは、最初と同じ言葉を使うパターンだけではない。
最初に戻るといってもあくまでその文章の基本状態に戻るということなので、筆者のスタンスを再度提示するのでもいいし、文章に一貫して流れる感情や雰囲気を一言で表現してもいいし、またそれらを比喩的に表現してもいい。
特に比喩的に表現して余韻を残して終わる方法は実に「それっぽく」オチを付けることができる。コラムや編集後記を任されるといい歳して作家気分に浸ってしまう、ごく一般的な新聞記者なんかにやたらと好まれている方法でもある。
例えば日本経済の先行き不安を無責任に煽り、さっきのウンコの話のオチで使った文をコピペして、
そんなことを考えていたら、ひやりとした夜風が頬をなでた。今年の冬は冷えそうだ。
なんて締めちゃえばあら不思議、量産型新聞記者コラム風の文章の出来上がりだ。ね、簡単でしょ?
内容なんか関係ない。終わりを認識させればそれがオチだし、上手い下手も結局は構造である。
そしてやっぱり何よりも大切なのは、あなた自身の気持ち。あなたがオチだと強く思えば、それがオチになるのです。
それこそが、どんな話にもオチを付ける一番の方法です。
テクニックの前にメンタルを鍛えるとどうにかなっちゃうことが多い
今更だけど
書く筋肉のトレーニングにおいて自分が何を意識してるのか考えた - ←ズイショ→
を読んだ。
内容は忘れたけど、とりあえずズイショさんがあの文体以外で書いたらどうなるんだろうなぁと思った。
もしかしたらあれでもまだぬる目で、リミッターを解除したら舞城王太郎よりすごい文圧かもしれない。はたまたあのブログは谷崎潤一郎における春琴抄のようなもので、本当は全く違う文体を隠しているのかもしれない。
とにかくまぁ何が言いたいかというと、文章自体は読みやすいのにいつも文体がやたら読みづれぇw
とまぁ前置きはさておき本題へ移ります。
上の記事は、
変化球が欲しいからこれから毎日ブログを書くよ。 - マトリョーシカ的日常
という記事に言及したものだ。
その記事の要旨はまさにタイトル通りで、変化球が欲しいから毎日ブログを書いてトレーニングするというものだ。
とても真面目である。やれやれ、僕は感心した。
しかし同時に、変化球を生み出してくれるウェブサービスもあるんじゃないだろうか、という疑問が湧いてきた。
そこで「変化球 生み出す トレーニング」と検索してみた。
が、当然ながら野球の内容ばかりで、それっぽいウェブサービスは見当たらない。
なので「変化球 生み出す トレーニング 文章」にしてみた。
それでもやはり野球ばかりだ。
みんな野球好きすぎだろ!頭おか……いや、違う。「変化球」が野球用語だからだ。
大切なことに気づいた僕はただちに変化球を消し、「生み出す トレーニング 文章」で検索してみた。
するとありました!一番上にありました!やっぱりGoogle先生は流石ですね!
ええ、そうです、これが本題です。
誰が作ったかはよく知らないが、文章をトレーニングするのにこのサイトはうってつけである。
実際ズイショさんも使っているという。
また、最近ネットから姿を消した人気ブロガー、某コンビニ店長も使っていたサイトだ。某コンビニ店長は即興小説トレーニングでいかにして書くかを詳細に綴った記事も書いていた(匿名で使っているらしいので、文体で判断できるなら今でも彼の新しい文章を読むことが出来るかもしれない)。
そんな即興小説トレーニングだが、そこで頑張っても文章の技術が特別上がるわけではない。
そこでの顕著な効果というのは、
・書き出すための最初の一歩を踏み出すのが楽になる
・普段文章を書く時にあまり疲弊しなくなる
・自分の行動力を削いでいる悪しき完璧主義が打ち砕かれる
・自分の新しい側面を発見できる
といったあたりである。
要するに「文章を書く」ということにおけるメンタルに近い部分が鍛えられるのだ。
なぜ鍛えられるのかは、単純である。やったことのある人はわかるだろうが、上記の項目に異常な負荷がかかるからだ。胃を悪くする人が出るレベルで負荷がかかる。
しかし繰り返してみれば得るものは大きい。
技術を直接鍛えるものではないので、単にブログで文章を書くだけの人にも有効だ。
そして上記の項目に関連する力が付けば、ブログだろうが小説だろうが何の文章テクニックだろうが、かなり効率よく習得できるようになるはずだ。 どんどん書けるようになるので、ガンガン経験値が貯まるというマッチョで単純な理屈だ。
経験者は「うんうん、あの負荷はすごいからね」と納得してくれるだろうが、それ以外の人にはいまいち伝わらないと思う。
結局は死にそうになって強くなるというサイヤ人式のトレーニングでしかないので合わない人も結構いるだろうが、文章マッチョマンになりたい人は是非挑戦してみてほしい。
アカウント無しでも使えるが、それだと匿名になって負荷が激減してしまうので、出来ればTwitterアカウントでログインして使ったほうがいい。逃げられなくなっていい感じになる。
最初は制限時間を30分か一時間に設定するのがいいと思う。
そして制限時間終了間際に「うわああああああ!」となってほしい。
それから同じお題で書いた他の人の作品を読んでいろいろ考えてほしい。
ついでに「バトル」というとこにある作品を読んで絶望してほしい。
この流れを三回くらい繰り返せば思うはずだ。
ブログはなんて書きやすいんだ……と。
読点を減らせば文章力が上がる
僕は声高にそう主張したい。
たとえスラムダンクのオープニング曲が流れたとしても、僕は「読点を減らせば文章力が上がる」と叫びたい。
世界の中心でも「読点を減らせば文章力が上がる」を叫ぶつもりだ。
文章力とは何か。読点とは何か。
それを知ればなぜ僕がこうも主張するのか、わかってもらえるだろう。
そもそも文章を書くということは、情報整理との戦いだ。
文章は一本の線なので、読者には一つずつしか情報を渡せない。かといって伝えたい情報を一度に伝えきるのは難しい。
だから上手く物事を伝えるには、一度に渡す情報の適切な量と順番を考なければならない。それが文章を書くということであり、その能力こそが文章力である。
そして読点とは、読者依存だと思っていい。
誰もが知っていることだが、日本語の読点は文章内の「、」という記号である。
では「、」自体の意味は何か?
そんなものはない。「、」は情報の空白なのである。
しかし空白といえども、役割が何もない訳ではない。リズムを整える役割もあれば、文を区切って情報を正確に伝える役割もある。
さらに最大の役割として、二つの文を繋ぐという役割がある。
通常、読者の思考は句点である「。」で区切られた一文ごとに途切れる。だから文章を書くほうはその一文に収まるように情報を整理していく。だが句点で区切らず読点で二文を繋ぐと、読者の思考は途切れることなく働き続ける。句点を読むまで休まない。
すると読者の思考の一区切りにおいて伝えられる情報が多くなる。それによって情報整理はより楽になり、またさらなる効率化も図れる。
ただし一文の中で使えば使うほど、読者の思考を本来よりも長く稼働させることになる。つまりは読者の負担になるのだ。そうなると内容に対する読者の理解力を奪っていくことになり、伝えたいことが上手く伝わらなくなってしまう。これでは本末転倒である。
あくまで読点は読者に少しだけ頑張ってもらうことで、結果として読者に伝わりやすくして負担を軽減するというものなのだ。
しかし文章力のない人はこの本末転倒をやってしまいがちだ。伝えよう伝えようと頑張るあまり、読点をたくさん打っているのだ。
読点をいくつも打ちたくなるのは、情報整理が上手くいっていない場合がほとんどだ。要するにこんがらがった情報の整理を放棄し、読者の思考時間を無理矢理伸ばすことで伝えようとしているのだ。だから読点を増やす前に、まず情報整理をやり直すべきなのである。
では一文に何回まで使っていいのか。
一回だ。一回しか使ってはならない。
二回でも危険な水準であり、三回以上は相当に危険だ。
もちろん文章力の高い人ならば、二回以上使っても全く問題はない。なぜなら文章力とは情報整理の能力なので、そういう人が情報整理を放棄して読点を使うことはあまりないからだ。良い文章を書くことだけを考えればいい。
しかし文章力に自信のない人ならば、絶対に一回までにしておいたほうがいい。二回以上使いたくなったら、文を練り直すか二文に分けるのだ。一文に二回以上使ったほうが良い文章になることも多いだろうが、一回しか使わずにいて支障が出ることなど滅多にない。情報整理と向き合う癖を付けるためにも、まとまった文章を書くときには一回を死守すべきだ。
自信がないというほどでもない人でも、読点を二回以上使う際にはよく注意したほうがいい。どのような場合においても情報整理は必須であり、意識的に確認するのは悪いことではない。僕自身もこのブログのような手を抜いた場所以外で二回以上使う場合は、かなり注意を払っている。(ただまぁ流石にこの文章は一回までを遵守している)
自分の文章力がどれくらいなのかわからない人は、とりあえず一回までに抑えながらまとまった文章を書いてみるといい。辛ければ辛いほど情報整理の能力が低いということであり、文章力が低いということである。
頭の切れる人はもう気づいているだろう。実はもっと直接的に情報整理の能力を鍛える術がある。
読点の全くない文章だ。
しかしそれでいて自然に読めてしまう文章を書くのだ。読点を使っていないことに読者に気づかれないくらいだと理想だ。
もちろん小説なんかだととんでもなく大変になってしまう。はっきり言って無理である。しかしブログなら柔軟な書き方ができるので無理ではないはずだ。もしくはツイートだと難易度も低くなってちょうどいいかもしれない。
読点を使えないということは読者の思考を延長することが全くできないということだ。すると必然的に情報整理の力で文章を綴るしかない。おまけに自然な文章にするためには接続詞や短文も効果的に使わないといけない。リズムにも気を使うし文末表現にも敏感になる。鍛えられる能力は非常に多いのである。
ただ、そうは言っても全く読点を使わない文章を練習する機会なんてなかなか作りづらいものだ。ごく普通の日常における実現は難しい。絶対に一回までにするというルールも、ブログのような媒体以外では実施しづらいだろう。
そういうわけで日常において文章を書く際に意識するための、現実的なルールも提示したい。それは読点の使用をなるべく避け、使ったほうが良い文章になりそうならしぶしぶ使うというルールだ。簡単に言ってしまえば「読点を減らす」という意識を持つということである。
これならば無理のない範囲で情報整理を意識することになり、ひいてはその能力が向上していくことにも繋がる。それは文章力の向上を意味する。
つまりは「読点を減らせば文章力が上がる」ということなのである。
普通の人ならばこれ以上簡単に文章力を上げる方法はない。ただ分析しただけの技術論に惑わされてはいけない。その多くは正しいが、分析結果は意識の中に携えていけるものではない。実用のために総合し、単純化された行動原理を持ち歩け!
だからせめてこの言葉だけでも覚えてほしいと思っている。
——読点を減らせば文章力が上がる……
——読点を減らせば文章力が上がる……
面白さの構造
——「面白さ」って何だろう?
さあ、なんと答える?
そもそもあなたは答えを出せる?
もし何らかの答えを出せる人がいるならば、是非ともブログやブックマークコメントかなんかに書いて欲しい。他の人がどう考えているかをすごく知りたい。
僕の出した答えはこうだ。
面白さとは意識の加速度である。
これは理論というよりも、「面白さ」なるものを感覚的に理解・構築するための表現だ。だから「面白さ」の全貌を体系的に秩序立てる力は弱いかもしれないが、人によっては「加速度」という言葉を見ただけで「なるほど」と思うかもしれない。
僕はこれに関わる理屈を自分の中で「加速度理論」と呼んでいて、大抵のコンテンツの「面白さ」は「意識の加速度」という観点で説明することが出来ると思っている。
「意識の加速度」とは
そもそも加速度というものは何かというと、それは読んで字のごとく、加速の度合いである。"G"という単位で表されたりもする。
加速度そのものについてはまあどうだっていい。
重要なのは加速度を感じる時の感覚である。
——電車が動き出す時と止まる時のあの感覚。
——高速エレベーターのぞわっとするあの感覚。
——足を踏み外してぐらりとする時のあの感覚。
こういったものが加速度を感じる時の感覚である。体がある状態から別の状態へ短時間で変化することで、ある程度の加速度が生じ、それを感じているのだ。
そしてそして似たような感覚を体ではなく、コンテンツの受け手の意識の上で生じさせることで「面白さ」が生じる。
しかし、これだけではまだまだ説明不足だろう。
そもそも意識とは
この文章で言っている「意識」というのは、「意識が向いている」なんていう時の「意識」と同じだ。
意識は基本的に一つのものにしか向けられない。そして常に連続性を持っていて、一つの流れの上に乗っかっている。
その流れを誘導するためのレールのようなものがコンテンツの持つ文脈である。だからコンテンツにのめり込んでくれさえすれば意識は文脈に乗って流れていく。そうして流れていく意識の加速度が「面白さ」となるのだ。
意識の加速度を生じさせるためには
ここまでの話はあくまで「加速度」という表現についての説明であり、それ自体は重要ではない。重要なのはここからの、いかにしてそれを生じさせるかということである。
当然ながら文脈上を意識がただ流れていくだけならば電車なんかと同じで、体感する加速度は微々たるものだ。せいぜい最初と最後に「おっ」と思うだけで、あとは大して加速度を感じない。
ただ真っ直ぐな文脈で充分な「面白さ」を感じさせるためには、スペースシャトルの打ち上げくらい猛烈に加速し続ける必要がある。だがコンテンツの受け手が情報を認識する速度にも限界があるので、加速度はすぐ頭打ちになり、真っ直ぐな文脈で面白いだなんてのは現実には起こりえない現象だと思っていい。
でははっきりと感じられるほどの加速度はどのようにして生まれるのか。
それはこの三つの要素から成り立っている。
・レギュラー文脈
・イレギュラー文脈
・リンク
この三つが組み合わさって「面白さの構造」を成しているのだ。コンテンツがコンテンツとして成立するための条件だと言っても過言ではない。
このどれもが欠けてはならない要素であるが、逆にこの全てが充分ならば、たった一言でも面白くもなる。
以下にこれらの要素ついて詳しく述べていきたい。
レギュラー文脈とイレギュラー文脈
加速度が変化の度合いである以上、生じるためには二つの状態が必要となる。基本となる状態と、それとは違う状態である。
それがレギュラー文脈とイレギュラー文脈である。コンテンツにおいて基本となる状態がレギュラー文脈で、それとは違った状態なのがイレギュラー文脈である。
そしてレギュラー文脈に受け手の意識が乗っかっている状態でイレギュラー文脈に意識を引っ張ってくることが出来れば、「意識の加速度」が生じ、「面白さ」が生じるのである。
文脈をレールに喩えるならば、電車は加速し続けるより、急カーブしたりいきなりレールチェンジしたり脱線したりするほうが乗客により強い加速度を体感させられるのだ。加速度の方向は関係ない。強い加速度なら前後だろうが左右だろうが、それが「面白さ」なのである。
リンク
レギュラー文脈からイレギュラー文脈へ変化させれば面白い。実にシンプルなことである。
しかし、ただイレギュラー文脈に変えればいいというわけではない。受け手の意識がしっかりとイレギュラー文脈に乗っかってくれないといけないのである。
多くの人が経験しているだろうが、「ん?」という風につっかえてしまうものは面白くないのだ。そういったものは受け手の意識がイレギュラー文脈に上手く乗っからず、レギュラー文脈に乗っかったままになってしまっている。
そうなってしまわないために、レギュラー文脈とイレギュラー文脈との間に何らかの関連性がないといけない。いわばレギュラー文脈とイレギュラー文脈の間の架け橋である。
それこそが、リンクという要素なのである。
このリンクが強いほど、よりスムーズに受け手の意識をイレギュラー文脈に移動させられる。
三要素の例
このように「面白さ」とは三つの要素で成り立っているのだが、抽象的な話に終始しているとわかりづらいだろうから一度立ち止まって具体例を挙げたい。
シンプルなほうがわかりやすいので、たった八文字の「布団がふっとんだ」という駄洒落を見てみよう。この文章で言っている「面白さ」は「笑い」に限ったことではないのだが、説明する際には「笑い」が一番わかりやすい。
この「布団がふっとんだ」という駄洒落においてレギュラー文脈は何か。それは布団である。布団およびそこから想起される状況がレギュラー文脈となっている。
ではイレギュラー文脈は何か。それは「ふっとんだ」という状況である。レギュラー文脈である「布団」とは明らかに方向性の違うものとなっていて、レギュラー文脈の時点では普通想起されないものだ。
ではリンクは何か。それは「ふとん(ふっとん)」という音韻だ。このリンクによって二つの異質な文脈が連結され、この駄洒落が成り立っている。
「布団がふっとんだ」自体は別に大して面白くはないのだが、理由もなく駄洒落の代表格になったわけではないはずだ。おそらく駄洒落の中で相対的に見れば、布団がひゅーんとふっとんでいくイレギュラー文脈の異質さが際立っており、その点で相対的に優れているからだろう。
一方で「アルミ缶の上にあるミカン」は違う部分で相対的に優れている。
レギュラー文脈は「アルミ缶」、イレギュラー文脈は「ミカン」だ。「アルミ缶」と「ミカン」は異質なものではあるが、アルミ缶の上にミカンがあることは別にありえないことでもないので「ミカン」の異質さが際立っているとは言えない。
しかし、リンクはどうだろうか。リンクは「あるみかん」という音韻であり、完全な一致度でありながら長さもあり、相対的に難易度の高いものであることは容易に想像できる。したがってこの駄洒落はリンクが優れているために有名な駄洒落としての地位を獲得しているのだろう。
余談だが、受け手の反応はともかく、作り手に駄洒落が好まれる理由の一つには、リンクが音韻と決まっているので三要素を揃えるのが比較的容易だからなのかもしれない。
大きな「面白さ」を生じさせるには
それではさらに進めていこう。
三つの要素を揃えて「面白さ」を生じさせたとしても、それがあまりにも小さければ意味がない。より大きな「面白さ」を生じさせなければならない。
それはつまりより大きな加速度を生じさせるということであり、そのためにはより短時間に変化させるか、より大きく変化させるかというのが主な方法だ。
具体的には、レギュラー文脈からイレギュラー文脈への意識の移動をリンクを強くすることでよりスムーズにするか、レギュラー文脈とイレギュラー文脈をより異質なものにして意識の移動距離をより長くする必要があるということである。
リンクを強くする
リンクを強くすることによって受け手がイレギュラー文脈を一瞬で受け入れ、より強い加速度が生まれる。
リンクを強くするというのは二つの文脈の関連性をより強くするということであるが、そのために二つの文脈を似たものにしてしまったら本末転倒だ。変化の幅が小さくなれば加速度も小さくなるからだ。あくまで二つの文脈の質的な距離を保ったままで、よりリンクを強くするのだ。
ただし、リンクが強くなければ面白くならないのかというと、そうではない。リンクは受け手の意識をイレギュラー文脈に乗せやすくするためのものであり、リンクが弱くても勢いや表現力で意識を強引に引っ張って来られれば加速度が発生するので面白くなってしまう。
昔々、あるところにお爺さんとお婆さんがいました。
_人人人人人_
> 突然の死 <
 ̄Y^Y^Y^Y^ ̄
こんなリンク皆無のどうしようもないネタでも、うかつにも意識を引っ張られてしまえば笑うことだってあり得る。おそらく強引な表現により、表現自体がリンクとなってしまう現象が起こっているのだろう。
ただ、加速度を生むことに成功しても、リンクの強さによって受け手が抱く印象は大きく変わってくる。
「笑い」を例にすれば、以下の様な差が出てくる。
・リンクが強い→秀逸
・リンクが弱い→シュール
・リンクが不明→意味不明
先ほどの駄洒落だと、リンクが弱めの「布団がふっとんだ」はどちらかと言えばシュール、リンクが強い「アルミ缶の上にあるミカン」はどちらかと言えば秀逸な印象を受ける。
だからあえて弱めのリンクで強引に攻め続けるのもアリっちゃアリなのである。
しかしリンクが弱いほど人を選ぶネタになってしまうので、シュールさや意味不明な感じを狙うのでなければ、なるべくリンクは強いものにすべきである。
情報の伝達速度を高める
意識がイレギュラー文脈へ移動する速度を高めることでより面白くすることができるのだが、受け手に情報が伝わる速度を高めるという方法もある。
単純な方法としては、情報伝達の言葉等を短くすることだ。伝わりにくくならず、情報量も減らさず、なおかつリンクも弱まらない範囲で短くできるなら、短くしたほうがいい。
伏線回収やどんでん返し
伏線回収やどんでん返しというのも、情報の伝達速度を速める類のテクニックである。
簡単に言えば小さな情報に大きな情報を含ませることで、一度により多くの情報を受け手に与えているのである。それによりイレギュラー文脈へ意識が移動するのにかなりの情報が必要だとしても、短時間で実現しているのである。
なぜ小さな情報に大きな情報を含ませることが出来るのかというと、それは小さな情報が新しい情報じゃないからだ。既に出ている情報であるから、情報が示す意味の他に、それがコンテンツ内で関わった様々な情報が付帯しているのである。その付帯した情報が大きな情報となるのである。
内輪ネタほど面白くなるものこれと同じであり、コンテンツ外で付帯した情報が多い情報というのが内輪ネタだ。もっとも、付帯した情報がコンテンツ外に由来しているのでホワイトリスト的に人を選ぶネタとなってしまうのは言うまでもない。
伏線回収やどんでん返しにはこれよりもさらに強くしたパターンがあるが、それに関しては後述する。
天丼
お笑いの「天丼」というテクニックもやはり同様の類である。これは既に使ったイレギュラー文脈を、違う場面でも使うことである。
ここで重要なのは、イレギュラー文脈は同じでも、レギュラー文脈は前に使ったものとは違ったものにするという点である。
既に受け手の意識が乗っかったことのあるイレギュラー文脈を使うことで、別のレギュラー文脈とそのイレギュラー文脈がかなり異質でリンクも弱い場合でも、受け手の意識を引っ張って来やすいのである。
このテクニックの成功率は、イレギュラー文脈に最初に意識がどれくらいしっかり乗るかで変わってくる。最初にしっかり乗るほど、二回目以降もスムーズに乗ってくれる。だからお笑いのネタ構成の常套手段である、序盤でウケたネタを「天丼」として終盤に使うやり方は、実に理にかなったものである。
フリートークでも有効で、前にウケたネタのイレギュラー文脈を、違うレギュラー文脈でも使えばそこそこの打率となる。これは話が面白い人ならば大抵の人が自然と使っているテクニックでもある。
しかしいくら「天丼」が有効なテクニックでも、ウケなかったネタならば、「天丼」を繰り返しても挽回は難しい。ほとんどはリンクの機能不全による意味不明な一人よがりで話し手だけが笑うという、悲しい結果に終わるだろう。
「天丼」、すなわち違うレギュラー文脈に同じイレギュラー文脈を使うテクニックは、「笑い」の領域以外でもよく使われる。
伏線回収やどんでん返しも、このパターンによって行われることがある。ただ、これは同じ展開を繰り返すことになるので、長編小説等の複雑な文脈をなす媒体においては、最後のオチとして使うと陳腐化しやすい。むしろ絡み合った話を一気に単純化することで急展開させて話の山場に向かわせるような、力技として使うのがベタである。
最後のオチとして使えるような伏線回収やどんでん返しのパターンは後述する。
リンクの後出し
通常は受け手がレギュラー文脈を認識し、リンクを認識し、イレギュラー文脈を認識することで意識が動く。しかし、イレギュラー文脈への移動を速めるためには、レギュラー文脈とイレギュラー文脈を先に認識させ、リンクを後から認識させるというのも有効である。そうするとリンクの認識速度が、イレギュラー文脈への移動速度となり、かなり加速度を付けられる。
これはミステリー作品でよくある手法でもある。結果がどうなるか、つまりイレギュラー文脈で「面白さ」を作り出すのではなく、トリックや動機、つまりリンクで「面白さ」を作り上げるのである。だいたいの作品で登場人物が死んだ時に面白く感じるのではなく死んでから話が面白くなるので、むしろミステリーではこの手法が主流と言えるかもしれない。
いわゆる「なぞかけ」というのもリンクの後出しで、こちらはかなり構造がわかりやすい。
Wikipediaに載っている例で見てみよう。
「ミニスカート」とかけて、「結婚式のスピーチ」と解く。
この場合リンクが重要な役割を担っているので、二つの文脈はさらりと提示されるだけだ。もちろん二つの文脈により質的な距離があるほうが加速度が付く。
その心は「短いほど喜ばれる」
これがリンクになっている訳だが、短く、そして遠いものを鮮やかに繋ぐような強いリンクほど一気に情報が伝わるため、面白くなるのである。
ツッコミの第一の役割
日本のお笑いの特徴であるツッコミもリンクに関わるテクニックである。
ツッコミというのは話を本筋に戻したり、主に話の進行させる役割を担っているものだが、そういう面の説明は割愛する。
「面白さの構造」という観点のみから見たツッコミの第一の役割は文脈間の距離の強調であり、これがツッコミの基本である。
ボケとしてイレギュラー文脈が提示された時に、「こんなにイレギュラーなんですよ!」と受け手に示しているのである。「なんでやねん!」という代表的ツッコミもまさにシンプルにその役割を担っている。
また、切り返しの得意ではない芸人はフリートークでいじらた時、無意識だろうが、咄嗟にとりあえずこの役割だけを担う言葉で場をしのぐことが多い。 つまりは「イレギュラーだ」ということをのみ示す言葉で、「えぇ〜!?」とか「おかしいでしょ!」とかそういったものである。これはなんとかツッコミを試みるが、最低限要求されるツッコミ役を演じることに精一杯で、そこから先を考えられていない、もしくは場が作るネタの全体像を把握出来ていないからである。
とはいえ、即座にツッコミ役の立場を示せるというだけでも高いスキルが必要なのであり、普通の人は無難に切り返すことだけでも難しい。
ツッコミの第二の役割
ツッコミが担える役割はこれだけではない。第二の役割としてリンクの補強がある。
これは相手の情報に対し、大して情報を含んでいない言葉でなく、新しい情報を含んだ言葉を使うのである。そうすることで二つの文脈の架け橋であるリンクを補強し、場合によっては補強でなく新たなリンクを提示し、もう一本橋を架けてしまうのだ。切り返しの上手い芸人がよくやっているが、これはなかなかすごいことである。
くりぃむしちゅーの上田がよくやるような「たとえツッコミ」というのも、もう一本橋を架けてしまう手法にあたる。「お前は○○か!」とツッコんだりする時に「○○」をボケに含まれる情報とは違う新しい情報を使うことで、レギュラー文脈とボケのリンクをもう一つ増やしているのだ。
タカアンドトシの漫才のツッコミとして有名な「欧米か!」も、一回目に使う場合はこのリンクを補強するパターンである。
普通のやりとりの中でいきなり「それでママのチェリーパイがさ」などと言い出す段階では、リンクが極めて弱く、イレギュラー文脈の異質さで笑いを誘うものだ。しかし「欧米か!」という突っ込みを入れることでそれがイレギュラー文脈だということを強調しつつ、単純な異質さでなく、「よくある日本と欧米の違い」という受け手の共通認識(要するにあるあるネタ)でリンクを強く補強している。
ただ、二回目以降の「欧米か!」は少し異なる性質を帯びる。それについては後述する。
ツッコミの第三の役割
ツッコミの第三の役割は、リンクの後出しである。これは前の二つとはかなり性質の異なるものだ。
このパターンの場合、イレギュラー文脈であるボケがレギュラー文脈から遠すぎてかえって「ん?」となりがちだ。そのままでは意味がわからず、ミスとなる。しかし他の人が絶対に見出せないような関連性をツッコミ役が見出してツッコミとして提示する。こうしてかけ離れた二つの文脈の間に一瞬にしてリンクが生まれ、かなりの加速度が生まれる。
このツッコミは爆笑問題等の仲良しコンビのフリートークによく見られ、彼らの武器となっている。
ただし、これはとてつもなく難易度の高いツッコミで、やはりよほどの仲良しコンビじゃないとしょっしゅう繰り出すのは不可能だ。ましてや我々一般人には狙って出来ることでもないだろう。
ノリツッコミの役割
お笑い技術論という訳でもないのにやたらツッコミに関する文章が続くが、ついでなのでノリツッコミについても言及しておこう。
通常、レギュラー文脈からイレギュラー文脈に意識が移動する時の加速度が「面白さ」なのは今までに言った通りだが、ノリツッコミもその際の移動時間をより短くするための工夫だ。
ノリツッコミはイレギュラー文脈が提示されても無理矢理にレギュラー文脈にとどまり、受け手が充分にイレギュラー文脈を認識したところでツッコむことでより文脈移動速度を高めているのだ。
ここで重要なのはタイミングである。早いとノリツッコミをする意味がなく、キレの悪いツッコミで終わる。ツッコミのキレが悪いと、意識の加速度も落ちる。反対に遅くても、受け手の意識は既にイレギュラー文脈に移ってしまい、意味がなくなる。もたもたしている間に意識がじわりとイレギュラー文脈に移るので加速度はやはり小さくなる。受け手の意識がイレギュラー文脈に自然に移ってしまうギリギリのところでツッコめば効果は最大となる。
この文章は「面白さの構造」であるので、ノリツッコミのような一見マニアックなテクニックも「笑い」に限った話ではない。「笑い」において成り立つ「面白さの構造」は、他でもその「面白さの構造」が成り立つ。
例えばラブコメで考えるなら、最初に嫌いだった相手を主人公が好きになり始め、それを受け手に気づかせるが、主人公には自覚させず、受け手がじれったくなるギリギリのところのエピソードの山場で一気に自覚させるという手法がノリツッコミと同じ構造である。
ただ、「笑い」において「面白さの構造」が成り立つかどうかは「笑うか笑わないか」という半ば生理的な現象として明確に表れるので、やはり「笑い」が一番例示しやすい。そして手法も構造が明確なものが多く、説明しやすい。
リンクの天丼
普通の「天丼」は、異なるレギュラー文脈においても同じイレギュラー文脈を使うことである。しかし、ネタというのは二つの文脈だけから成るのではなく、そこにリンクを加えた三つの要素から成る。
したがって異なるレギュラー文脈とイレギュラー文脈において同じリンクを使うということも可能である。
その実例こそが、二回目以降の「欧米か!」である。
一度使ったリンクなので、受け手の意識はスムーズに移動しやすい。それにより二つの文脈の質的な距離を広げてリンクがやや強引になったとしても、意識を移動させやすい。また、そのリンクは一度通った道なので移動速度も速くなる。
この構造は最後のオチとして使うような、伏線回収やどんでん返しのより強いパターンにしばしば用いられる。単に一度使った情報をもう一度使うのではなく、一度リンクとして使われたものを、異なるレギュラー文脈とイレギュラー文脈のより重要な場面でもう一度リンクとして使うのである。
序盤で本筋と関係のない問題を解決するための糸口として出たものを、終盤の本筋の問題を解決するための糸口として使ってみせる手法がまさにそれである。
鮮やかな伏線回収やどんでん返しが成功するかは、使用した情報の重要度ではなく、主にこの構造を持っているか否かで決まると言っても過言ではないだろう。
事実という最強のリンク
「面白さの構造」が成り立つためには、リンクが必ずなくてはならない。
しかし、これといってリンクを作らなくても強力なリンクが最初から存在する場合がある。それが「事実」というものである。実際のレギュラー文脈から実際のイレギュラー文脈に変化したのなら、両者が関連性を失うことなどないからだ。だから受け入れがたい事実でない限り、受け手の意識はスムーズにイレギュラー文脈に移り、加速度が生まれる。
そして事実というコンテンツにおいても、伝聞より直接見るほうがイレギュラー文脈への変化をより強く証明するため、強いリンクとなる。
たとえば、同じノンフィクションにしても、伝聞に近い文章表現よりも、直接見るのに近い映像表現のほうがより強いリンクとなる。もちろん文章のほうが表現の幅が広がるのだが、全て映像に収められるならば映像のほうが強い。
リンクが強いということは、イレギュラー文脈がどれほど異質であっても「面白さの構造」が成り立ってしまうということだ。その際、レギュラー文脈は日常や常識が担う場合が多い。だから極めて異質な実際のイレギュラー文脈、その一点さえ提示するだけでも面白いコンテンツが成立する。
そしてまさにそういった方向に純度を高めたコンテンツが、ニュースやハプニング映像でなのである。
ニュースやハプニング映像でなくとも、映像内の人物がレギュラー文脈を担っているような場合であれば、その人物がイレギュラー文脈を作り出すだけで「面白さの構造」が成り立つ。なぜならその人物の動作自体がリンクになるからだ。
二つの文脈の距離を長く
より大きな加速度を生じさせるために必要な、文脈間を移動する時間を短くする方法については一通り説明したので、今度は文脈間の移動距離を長くする方法について述べていきたい。
二つの文脈がより離れるように、一気に両方の位置を通常考えられる位置よりも離すことができればそれに越したことはない。ただ、人は考えようと思った時には一度に一つのことしか考えられない。おまけに「面白さ」は一つの文脈だけでは決まらない。
だから意識的に何かを思いつこうとしたら、先に思いついた文脈に対して、後からもう一方の文脈をより離れるように考えていくしかない。
という訳で以下にそれぞれの文脈を後から考えていく場合の例を挙げる。構造としては距離が広がればどちらの文脈が後かという点は関係ないのだが、何かを考える際にはやはりどちらが後に来るかで大きく変わってくるからだ。
イレギュラー文脈を後から考える
これは非常にシンプルである。既に決まっているレギュラー文脈に対し、イレギュラー文脈をより離れた場所に置くするというだけだ。簡単に言えば相対的により異質なものを持ってくるのだ。
とはいえ、簡単に言えても簡単に出来ることではない。
強いてポイントを挙げるとしたら、イレギュラー文脈自体の持つ異質さや面白味で考えないことだ。コンテンツの「面白さ」は構造の中にある。だからレギュラー文脈との距離、そしてリンクの強さで考えるべきであり、場合によっては何の変哲もない事柄でも強力なイレギュラー文脈と成りうる。
イレギュラー文脈をレギュラー文脈からいかに遠いところに置くかによって「面白さ」が決まってくる代表的なものが、大喜利である。
具体例は「ボケて」にいっぱいあるので勝手に見て欲しい。お題画像の時点でちょっと面白いものもあるが、基本的には上手くリンクを作り、レギュラー文脈である画像から、いかに遠いイレギュラー文脈へ持っていくかが肝になっている。
ただ、秀逸さを感じるネタほど、リンクの強さに起因する「面白さ」の割合が多い。それは前述したように、リンクの強さからくる印象の差がストレートに出ているからである。
レギュラー文脈を後から考える
表現したいものとして思いついた時、それがイレギュラー文脈に来るべきものであることもよくある。例えばボケであったり、コンテンツの中核をなす部分や、クライマックスの展開や結末などだ。
するとそれをより効果的に、つまり面白く感じさせるためには、土台となるレギュラー文脈をそこから遠いものにするとより面白くなる。
よくある方法だと、斬新な設定を基本の状態とするやり方だ。そうすることで大抵のイレギュラー文脈との距離は自ずと広げられる。ただし、その「斬新さ」が一番難しかったりする。
方法はそれだけではない。あくまでイレギュラー文脈との距離で面白さが決まるものなので、距離さえ広げられれば斬新でなくてもいい。
例えばコントのレギュラー文脈に葬式シチュエーションを設定してみるような方法だ。
もはやこの時点で「あ、これはずるいな」と感じた人も多いだろう。しかし葬式自体が面白い訳でもないし、斬新な設定であるはずもない。
ではなぜこの方法がずるいと感じるのかというと、面白くなりやすいということを経験的に知っているからだ。
コントであるからにはイレギュラー文脈であるボケはおかしさや滑稽さを表現するのがほぼ決まっている。すると葬式シチュエーションという極めてシリアスなレギュラー文脈は、普通のコントのシチュエーションと比べ、ボケであるイレギュラー文脈との距離を広げやすい。
「シリアスな笑い」と言われるような、シリアスな雰囲気なのに笑ってしまうパターンもここに含まれる。
ただ、これも「笑い」の領域に限った話ではない。他の領域の例では、小売店販売員のあるあるネタを設定の中心に据えた時に、舞台をごく普通の現代でなくあえて魔法ファンタジーの世界にしてしまうような手法がちょうどこれにあたる。
不謹慎なネタほど妙に面白くなってしまうのも同様の理由だろう。もちろん、引いてしまうほど不謹慎だと意識をイレギュラー文脈に引っ張ってくることも出来ず、加速度は生じない。
レギュラー文脈を意識になじませる
レギュラー文脈をイレギュラー文脈に受け手の意識を移動させればいいのだが、そもそもレギュラー文脈にしっかりと意識が乗ってないと上手くいかない。しかも単に乗ってればいいという訳ではなく、よくなじんでいるほうがいい。
イメージとしては、電車の乗客に慣性が付くほど、急停車や急カーブで乗客が加速度を体感するのと同じようなものだ。
このレギュラー文脈を受け手の意識になじませるというのは軽視してはならない。小説でも何でも、最初に丁寧な描写をしっかりと行うのはほとんどレギュラー文脈をなじませるために行うものである場合が多い。時代を反映したコンテンツの強みも強みもここにある。
また、人に物事の面白さを伝えるのが下手な人は、リンクやイレギュラー文脈ばかりを伝えてしまっていることが考えられる。面白くなるポイントは確かにそれらなのだが、それはレギュラー文脈あってこそであり、まずは丁寧にレギュラー文脈を伝えること必要なのである。
ボリュームのあるコンテンツの場合
ボリュームのあるコンテンツの場合、レギュラー文脈とイレギュラー文脈を一組作っておしまいという訳にはいかない。複数の組み合わせを連続させていく必要がある。
漫才のようにツッコミでいちいち元の文脈に戻すようなコンテンツでない限り、レギュラー文脈がイレギュラー文脈に変化したら、そのままイレギュラー文脈で進んでいく。するとイレギュラー文脈にも受け手の意識がなじみ始め、それがレギュラー文脈となる。そうなったらまたイレギュラー文脈に変化させ、この流れを繰り返す。
ストーリーのあるコンテンツは単純化してしまえばだいたいこのような感じで構成されている。
また、コンテンツの受け手が「続きを知りたい!」と思うように仕向け、コンテンツの先へ先へと進ませるテクニックを「引き」と言う。
これはその時点の展開、つまりレギュラー文脈でイレギュラー文脈の存在を示唆することである。どういうイレギュラー文脈かを示唆するのではない。ただその先にイレギュラー文脈が存在しているということを強く示唆するだけだ。
したがって引きも含めた流れを示すと以下となる。
レギュラー文脈の提示→なじむ→引き→イレギュラー文脈に変化→なじんでレギュラー化→引き→イレギュラー文脈に変化……(以下繰り返し)
余談
面倒になってきたので箇条書き。
・ニコニコ動画のコメントで笑ったりしてしまう場合があるのは、動画というレギュラー文脈において、コメントが大喜利的にとんでもないイレギュラー文脈をもたらすことがあるからだろう。一体感なんていうのもニコニコ動画の面白さに寄与しているが、一体感で爆笑する人はいない。
・なぜイレギュラー文脈への意識の移動が「面白さ」をもたらすのかという問題になると、ちょっとよくわからない。たぶん人の学習本能の快楽とかそういうことだろうと思っているが、そこらへんの考察を誰か書いてくれると嬉しい。
・コンテンツの受け手の理解力が子供のように低い場合は、とにかくリンクを強めればウケる。イレギュラー文脈が全然イレギュラーな感じでなくてもいい。低レベルという誹りを恐れないなら、リンクが「あたりまえ」なんていうとんでもないものでも全く問題はない。
・「面白さの構造」は構造であるので、「エロス」という領域だろうとこの「加速度理論」は通用する。 「エロス」における「面白さ」は当然「エロさ」となる。
・ツッコミは文脈を往復する効果もあり? しかしもうお笑いについて考えるのが嫌になってきた……
・本当は「アプリメーカー」を引き合いに出しながら説明する予定だったけど、すっかり忘れてた……
「アプリメーカー」ってのはあれです、アドセンス貼れちゃう診断メーカーみたいな。
面白さの構造を見出す
あとは実際のコンテンツを見て「面白さの構造」を見てもらいたい。
とりあえず「面白さの構造」については一通り説明した。これであなたはもう構造から生まれる加速度で「面白さ」を考え、そして作り出していくこの「加速度理論」の使い手だ。必要な知識は既に持っており、見ようと思えば一応は全てのコンテンツに一定の構造が見えてくるだろう。
もしまだピンと来ないという人がいたら、以下のページを見て欲しい。
どれも実際の映像なのでリンクは主に画面の中心人物の動作が担っているが、レギュラー文脈、イレギュラー文脈、そしてリンクから成る「面白さの構造」が見えるはずだ。
また、「面白さの構造」は相対的なものである。全てはそれぞれの要素の相対的な差で決まる。
だからレギュラー文脈を受け手のニュートラルな意識に設定すれば、イレギュラー文脈の一手で「面白さ」 を生み出すことが出来る。そういうところまで考えると、より様々な場所に「面白さの構造」を見出せるはずだ。
例えばこの文章の冒頭だ。もし「面白さって何だろう?」という質問を見てその答えを考えてしまったり、答えを知りたがったりすれば、その時点で意識が引っ張られて加速度が生じてしまうのだ。大きな加速度ではないのでそれだけでは特別面白くはならないが、その一手で多少の「面白さ」が生まれている。こんな長い文章をここまで読んでしまったような人なら体感しているはずである。
構造であること
まだまだ細かいことをいろいろ言いたい気持ちもあるが、ここらへんで終わりにしようかと思う。きちんとまとめたこともない漠然とした考えを投稿フォームに直接綴っていくという作業に、ちょっと疲れてきてしまったのだ(笑)
しかし一方で、書きすぎてしまったという気もする。
なぜならこれは構造の話なのである。だから構造さえ提示できれば、その表層としての例を挙げる必要などないと言えばないのだ。当初もそういう予定だった。筆がよく進むという投稿フォーム直打ちのメリットを強く感じながら書いていたが、今となっては文章の流れが制御不能になりがちというデメリットをひしひしと感じている。
何度も繰り返すが、この「加速度理論」はあくまで構造の話である。したがって、「笑い」のような一領域で成立している「面白さの構造」でも、その構造は「面白さ」の存在する全ての領域において通用すると考えている。そして「面白さ」が「面白さの構造」から生まれている以上、その構造さえ作ればコンテンツは面白くなる。
だからもしあなたが何らかの領域で「面白さ」を生み出そうとするなら、この「加速度理論」も少しは役に立つのではなかろうか。
最後に一つ言っておくが、「加速度理論」もまだまだ不完全で曖昧だ。ずっと漠然と考えていたことではあったが、大部分がこのブログに書くために数日でまとめたものに過ぎない。
だからこれを読んだ人は是非とも自分の考えをどこかに少しでもいいから発信して欲しい。僕には知りたいことが山ほどあるのだ。
さあ、もう一度聞こう。
——「面白さ」って何だろう?
はてなブログで改行したら行間が広くなりすぎる問題の解決方法
【追記】
僕自身はこんな記事を書いておきながらのちのちMarkdown記法に移行しましたので、行間を狭くする設定を削除しています。
改行の問題
はてなダイアリーからはてなブログに移転したわけだけど、投稿フォームで書いていると改行でやたらと行間が空いてしまう問題に直面した。
別に大した問題ではないのだが、なんだか気軽に改行しづらくなってしまった。そして改行したらしたで、そのまとまりがいかにも「一つの段落ですよ」という感じになってしまい、書いていて窮屈な感じもした。
確かに義務教育内での国語における段落の扱いはそんな感じで、そんなにバンバン改行するもんでもなかった。
しかし書籍・ネット問わず、現代的な書き方だと結構バンバン改行するのが普通だ。それはそうしたほうが読み手にとって読みやすいからであり、僕を含め書き手は当然ながら読まれやすい文章を書こうとする。
だから改行しづらいというのは非常に困るのである。
もちろん、はてなブログの流儀に従うというのもアリだ。というかそれがマジョリティだ。
でも僕はなんか嫌なのだ。改行でやたら行間を空ける媒体で文章を書いた経験もさほどないし、自分が今まで書いてきたのと同じ方法で書きたい。
細かいことを気にしない、という選択肢も当然ある。行間なんか気にせずどんどん改行しちゃうのだ。
それもまあ悪いことではない。実際、読み手にとってはさほど違いがないだろうから。
しかし自分としてはどうしても気になってしまい、やっぱり書きづらいのだ。
というわけで、解決策を模索することにした。
shift+enterしたら負け
この改行問題というのは、enterを押して改行された時に普通の改行のコードである<br />でなく、</p>というコードが入力されるために起こる。</p>とは「段落(パラグラフ)の終わりですよ」というコードである。
だから改行するごとにいかにもそれが「段落ですよ」という感じになるのは、実にまっとうな現象だ。しかしそもそも段落っぽさはそこまで出したくない。
では普通の改行はどうすれば入力できるかというと、shift+enterで可能だ。それだけでいい。
これで万事解決……ではない。
実際のところ、改行のたびにenterでなくshift+enterの押すのは面倒である。
というわけで、今度は普通にenterを押してもいいように変える方法を模索することにした。
pタグから逃げるのではなく、pタグを殺せ!
僕が考えたのは、</p>つまりpタグのCSSを普通の改行と同じにしてしまう作戦である。CSSとはデザインやら何やらを何とかする何かである。
デフォルトのCSSをチェックしてみると、案の定「pの上下には0.8行分もの隙間を空けてしまえ!ぐへへ」といういやらしいコードが書いてあった。
なので「pの上下で変な隙間空けんな!」という怒りのコード打ち込んでうりゃっ!とすればpタグは実質無効化する。
で、そのコードはどこに打ち込めばいいのかというと、「デザイン」→「カスタマイズ」→「サイドバー」とクリックしていって表示される「{} デザインCSS」というところだ。
そこに以下のコードをコピペすればpタグは死ぬ。
.entry-content p { margin:0}
ついでに本文の文字の大きさもデフォルトよりもほんの少しだけ大きくしたかったので、僕はこうも書いておいた。
.entry-content { font-size:15px}
もっといい方法があるのかもしれないけど、ひとまずこれで改行問題は無事解決した。
僕のように改行で行間が広く空いてしまうのが嫌な人には、とりあえずこのpタグ殺しをおすすめしておきます。
ついに出た!スキル無しでもWebアプリを作って収入を得られる禁断のサイト!
スキルは無いけれど、ちょっとしたWebアプリを作って収入を得たい……
なんて思っている人は多いでしょう。
特に診断系Webアプリなんていうのは大した技術もいらない割に、拡散性が強いのでPVを増やしやすく、Google AdSenseのような類の広告ならかなり儲かる部類に入ります。
もちろんそれはある程度流行って、いわゆる「バズった」という状態にならないと広告収入など無きに等しいレベルなのですが、相対的に見ればバズる確率も高く、制作時間も短く、圧倒的に低コスト高収入です。
あえて診断系Webアプリの欠点を挙げるとすれば、流行っても頭打ちになりやすく、旬が過ぎるのも早い点です。広告収入が月100万を超えることはほぼ不可能で、おまけに長続きもしないのですから、もし専業化を目指しているなら診断Webアプリの制作ははっきり言って愚策です。
ですが、副業やバイト代わりとしては、やはりこんなに割のいいWebアプリはありません。少しバズれば月数万円がポンと入ってきますし、思いっきりバズってしまえば月数十万円入ります。それは誇張でも机上の空論でもなく、事実として断言出来ます。
なぜ断言出来るかというと、単なるインカレサークルである我がウェブ研が昨年の秋、実際に経験したことだからです。
企業ではない、そこらへんのサークルでも万単位の収益を上げられたのです(企業でそれなら酷いもんですがw)。
しかもサークルと言ってもその頃は設立してからまだ半年でした。今もそうですが、メンバーは2人しかいません。さらに2人ともサークルを設立するまではスキルゼロの素人でした。ですから良くわからないまま始めて学びながらいろいろと制作していたのですが、そんな我々でも意外と上手くいってしまいました。
そこに味をしめた我々は、診断系Webアプリの量産を企てます。診断系Webアプリ1個につき数万円なら、100個作れば100万円くらいはいくかもしれない、と夢想しました。
ところがそう上手くは行きませんでした。
ご存知の通り、診断系Webアプリなんていうものはくだらないものです。診断系Webアプリの制作期間は半日から1週間と短いものですが、それでも制作にはそれなりのモチベーションというものが必要になります。頭も多少は使わないといけません。
ですから「やるぞ!」という気持ちが湧いてこない限り、制作に取り掛かることなど出来ないのです。仕事で強いられているならともかく、「別にやらなくてもいい」という選択肢がチラついた状態ではなかなか作れないのです。なぜなら作るものがくだらないから!
とはいえ、くだらないものは好きです。くだらないものちゃんのことは好きだけど、ごめん、付き合うのはちょっと違う気がするんだよね……そう、友達以上恋人未満なのです。
そこで考えました。診断系Webアプリを毎回1から作る気にはなれないので、いっそのこと診断系Webアプリをプログラミングもコーディングも無しでさくっと作れちゃうようなWebアプリを作ってしまえ!と。
そしてさらに考えました。プログラミングもコーディングも無しで作れちゃうなら、自分たちが使うだけでなく、すべての非技術者に開放しちゃっても面白いんじゃないか?と。
そしてさらにさらに考えました。Google Adsenseの広告枠も開放してより多くの人に診断系Webアプリを作ってもらい、運営はそのおこぼれをもらうだけでもそれなりに儲かるんではないか?と。
そうして自分たちだけでバズりそうなものを量産するクローズな方針と、他人に広告枠を開放して超量産してもらうオープンな方針を天秤に掛けました。
その結果、メインの広告枠を手放すとページごとの収益は1/10以下になってしまうが、他人に超量産してもらえれば生産量は10倍なんか大きく超えるだろうし、何より他人に作ってもらったほうが楽ということで、オープンな方針で行くことにしました。よく考えたらオープンにしたって自分たちで使い続けることが出来ますし。
とはいえ、診断系Webアプリを誰でも作れるようにしてしまうというのは、一種のタブーです。診断系Webアプリを受諾開発で作って楽に儲けてる制作会社も腐るほどありますし、それに絡んだ情報商材を売ってる詐欺まがいの人達もいっぱいいますし、診断系Webアプリは低レベルな技術者が参加できる最後のブルーオーシャンでもあるのです。それをすべての素人達に開放してしまうことになるのですから、彼らが吸っていた甘い汁を奪ってしまうことになるのです。
そんな横暴は胸が痛みます……少しだけ。いや……ほんの少しだけ。いや……まぁ……そうです、正直に言ってしまえば全然胸は痛みません! むしろ彼らは死に絶えて然るべきで、我々が甘い汁を吸える確証は全くありませんが、彼らが甘い汁を素人に奪われるなら実に気味が良い! へっ! ざまぁ見ろこんちくしょー!
そういう訳で、診断系Webアプリをスキル無しの素人でも作れて、おまけに広告収入も得られるサイトの制作が始まりました。
……それが4月の終わり。
途中に「はたらけミュージック」の制作が入ったりなんやかんやで、結局制作を始めてから4ヶ月近くもかかってしまいました。
ですがようやく完成したのです!
ついに出たのです!
というか出したのです!
facebookの診断系Webアプリを作る機能は未実装ですが、Twitterの診断系Webアプリはじゃんじゃん作れてしまいます。プログラミングもコーディングも皆無で!
Adsenseだって各種アフィリエイトだって可能です!
それがこの「アプリメーカー」だ!
http://appli-maker.jp/
リリースしたばかりでまだほとんど存在を知られていませんし、作られたアプリも少ないのですが、これでシンプルなTwitter連携Webアプリはさくっと作れてしまいます。
バズったりしているWebアプリでも、アプリメーカーだけで同じ機能を作れてしまうものがたくさんあります。ですからアイディアさえ良ければ、さくっと作ってどかっとバズるということもあり得るでしょう。優れたアイディアはあるが技術がなくて何も作れなかった人ならば、一気にその才能が世に放たれることでしょう。より多くのみなさんに使って頂けることを願います。
こうして技術の壁を低くして、才能がより発揮されやすくすることが文明の力であり、世界が進むべき正しい道だと思っています。
そして世界をそういった道に進めていくことこそ、我がウェブ研の理念であります。
作るものはくだらないものでも、楽をするために作ったとしても、きちんと理念に沿った制作物を世に送り出せたというのは非常に心地よいものです。
誰に、という訳でもありませんが、こういう機会を得たことを無性に感謝したい気持ちです。
せっかくだから甘い汁を吸っていて、これから無数の素人に蹂躙されていく予定の人達に言っておきましょう。
なんかあざーすw
いや、やっぱりこれは締まらないですね。困った。
しかし困った時は室伏広治。江戸時代から伝わる日本の風習です。
なのでここは彼に感謝を伝えておしまいといたしましょう。
室伏ありがとう!
こんな作業用BGMサイトが欲しかった
「はたらけミュージック」というウェブサービスを作った。ウェブ研の21個目の制作物である。
そして、これは僕がずっと欲しかった作業用BGMサイトだ。
もともと僕自身は、作業用BGMサイトとして「GetWordDoneMusic.com」を使っていた。これは非常にシンプルなサイトで、ボタンを押せばSoundCloudの人気楽曲の中から一定のテンポのエレクトロニカを順次流すというだけのサイトだ。
なんともシンプルなサイトだが、上手くツボを押さえていた。速めのテンポで刻まれるビートによって、自然と集中状態へと誘われた。
しかしだ、ツボしか押さえていないため、問題もあった。
まず第一に、音量の調節が出来ないことに悩まされた。そんなものはデバイス側で調節すればいいと思うかもしれないが、そうはいかなかった。
デフォルトの音量が大きめなのである。
iPhone付属のイヤホンや一般的なカナル型イヤホンだと小さな出力でも大きな音になりがちなので、デバイス側で音量を最小にしてもそこそこ大きい音になってしまう。
もちろん聞けないほどの大きさではない。「曲を聴きたい」という気分ならばちょうどいい音量だ。
だが求めているのは作業用BGM。やや音量を落として、一種の環境音にしておきたいのだ。最初は特に気にしていなかったが、日常的に使うようになると段々そこにストレスを感じ始めた。
第二の問題は、エレクトロニカしかないということだ。
「ドッドッドッドッ」とハイテンポな四つ打ちが自らの鼓動とリンクするように感じられ、意識が先鋭化されていく……なんていう経験は何度もあった。しかしその一方で、長時間聞いていると重たく感じることもよくあった。選択肢がエレクトロニカしかないというのは、音量を小さく出来ないのと相まって聞き疲れを助長した。
第三の問題は、楽曲リストの貧弱さである。
一見、次から次へと新しい音楽が流れ、新鮮さを失わないサイトだ。
だが日常的に使ってみると、同じ曲に何度も当たることが珍しくない。そうして大きめの音量で「ドッドッドッドッ」と音圧の高いものが流されると、新鮮さは倦怠感へと変わっていく。
このように、GetWordDoneMusicはツボを押さえているが、ツボしか押さえておらず、痒いところに手を伸ばしてくれなかった。
普通はまぁそれはしょうがない、で済む話だ。
だが日常的に使っていたので僕は痒さに我慢出来なかった。
そうして「はたらけミュージック」を作ることになったのだ。
はたらけミュージックの主な機能はGetWordDoneMusic.comとさほど変わらない。
SoundCloudから人気楽曲を持ってきて順次流すだけである。
しかし、周辺機能で自分の痒いところにしっかり手が届くようになっている。
まず音量だ。
音量を小さく出来るのだ!
これは1サイトとしては小さな機能だが、GetWordDoneMusicユーザーにとっては偉大な飛躍である。
そして次に、再生するジャンルをいくらか選択できるようにした。
デフォルトのプレイリストは3つで、エレクトロニカのリストと、ハイテンポなエレクトロニカのリストに加え、ジャズとクラシックを流すリストを作った。
それぞれ「のんびり働く」(ジャズ・クラシック)、「普通に働く」(エレクトロニカ)、「バリバリ働く」(ハイテンポなエレクトロニカ)という名前のリストになっている。
もちろん自分好みのジャンルやテンポを設定して保存することも出来る。気に入った曲をサイト上でお気に入りすることも出来る。
各種設定や再生履歴、音量などは、ローカルストレージによってログイン等の機能なしでしっかり保存される。
さらに楽曲のリストも大幅に強化している。
GetWordDoneMusicではあらかじめ運営者が作ったリストを再生しているのだが、はたらけミュージックではリストの生成をすべて自動化し、常にある程度の新鮮さを保つようにしている。
それだけではない。
はたらけミュージックはブラウザの拡張機能によって劇的に利便性が向上する。
楽曲の再生/停止、進む/戻る、音量調節をブラウザの上部をワンクリックするだけでコントロール出来るのだ。
開いているタブがはたらけミュージックでなくても、バックグラウンドでちゃんと動いてくれる。
はたらけミュージックを開いているタブが一つもなくても、拡張機能のボタンを押せばバックグラウンドではたらけミュージックを開いて自動で再生してくれる。もちろん再生するプレイリストや、再生時の音量は前回開いた時のものを維持しているので、はたらけミュージックのタブを一切確認することなく、本当にワンクリックで自分に最適化された作業用BGMを手に入れることが出来るのだ。
現在拡張機能はGoogle Chrome用だけでなく、Firefox用も制作してある。(Firefox用はもうすぐ公開予定。)
まだ完全とは言えないが、こうして出来上がったはたらけミュージックは、自分の中では最も理想に近い作業用BGMサイトになった。
こういうウェブサービスを作ると、本当に作って良かったと思える。
人気や広告収入なんて最初から度外視している。ただ理想を形にしたかった。
どんな理想を持っていても、人に語っても、形にしなければ伝えられない。
そしてその理想がどれほど崇高だろうと素敵だろうと現実的だろうと、形になっていないとそれは「わがまま」と大差ない。
しかし形にしてしまえばその意味は大きく変わるものだ。
僕は、こんな作業用BGMサイトが欲しかった。
――ウェブ研21号「はたらけミュージック」
「初音ミクって何がすごいの?」という問いに答えられるか
――初音ミクって何がすごいの?
もしあなたがそう問われたら、どう答えるだろうか。
もしくはあなたがそんな疑問を抱いたとき、どんな答えなら納得するか。
少なくとも僕は明確な答えを提示できないし、すんなり納得できる答えに出会ったこともない。
しかし過去のツイートなどを元に、僕が今まで初音ミクに対して思ったことをはっきりさせてみたい。
調教されているのはどっち?
ここでなぜ僕は「ボーカロイド」というくくりでなく「初音ミク」というくくりで語るのかを言っておこう。
僕は各ボーカロイドに差異化するほどの個性はないと思っている。
初めて鏡音リンの声を聴いたとき、「初音ミクじゃん」と僕は思った。そして他の新ボーカロイドが出てきたときも似たようなことを何度か思ったことがある。ニコニコ動画のコメントでも同じようなことを思った人はちらほらいた気がする。
今からするとそれは実に不思議である。初音ミクと鏡音リンの声は全然違う声なのだ。なのに同じように聞こえていた。
おそらく、僕は単なる慣れによって聞き分けられるようになった。よほど初音ミクを聴き込んでいる人はちょっとの違いがあれば即座に他のボーカロイドだと認識できるだろうが、ぬるい初音ミクリスナーはきっと僕と似たようなものだろう。
つまり客観的にはボーカロイド間に大きな差などなく、実際は声の個性など微々たるものなのだ。あくまでリスナーが慣れによって見出しているものであり、世間一般に聴かせても揺るがないほどの特徴はない。
だから僕はここでボーカロイド全般を語るにしても「初音ミク」でくくってしまおうと思う。
それにまぁ初音ミクという存在が一番象徴的でわかりやすいんだし、いいよね?
ぶっちゃけて言えば
さて、本題に入ろう。
ぶっちゃけて言えば初音ミクの「歌声」はすごくない。
技術的にすごいのは確かだし、ボーカロイド間の差は乏しいとしてもロボ声とアニメ声の絶妙なバランスを成し遂げて全体として「ボカロ声」とも言えるような個性を獲得しているのはめちゃくちゃすごい。それは人と同じ土俵に立つ資格が十分にあると思えるくらいすごい。
しかし、人と同じ土俵に立てるからと言って、人に勝てるわけじゃない。人とかソフトとか考えず純粋に「歌声」として聴けば、初音ミクがすごいとは到底言い難い。
ボカロ声やキャラクター性が少なからず初音ミクの魅力となっているのは確実だろうが、「初音ミクって何がすごいの?」と聴かれて「歌声がすごい」と答えるのはどうも的確ではなさそうだ。
初音ミクはビジュアルだけで勝負できただろうか
初音ミクは一目で初音ミクとわかるビジュアルである。しかし、ビジュアルがすごいから初音ミクがすごいという訳でもないのはまぁ明白だろう。
言葉は悪いが、「いかにもオタクっぽい感じ」を上手くまとめたという風なキャラクターデザインなのである。
その点が後述する初音ミクのすごさに寄与しているとは思うが、やっぱり「初音ミクはビジュアルがすごいからすごい」とは言い難い。
文化的広がりは間違いなくすごい
初音ミクのすごさは文化的広がりだと言っても過言ではない。本当にすごいのだ。
文化的広がりとは、いちいち書いて説明するのが面倒なくらい裾野の広い二次的創作だ。二次創作と言うとまた別の意味を帯びてしまうので、二次的創作と言っておく。
具体的には初音ミクを一種のジャンルとした音楽、動画、イラスト、漫画、小説等である。ネットでよく見かけるだろう。それらは互いに影響しあい、そして発展している。ただの音楽ソフトがこうなるというのはとてつもなくすごい。
しかし、「初音ミクって何がすごいの?」という問いは「初音ミクって何であんなにすごい文化的広がりを成し遂げてるの?」という要素を多分に含んでいるため、「文化的広がりがすごいから初音ミクはすごい」と答えるのはちょっと間違っているだろう。
借りて・真似して・流行って
ではなぜ初音ミクはそういった文化的広がりを持つに到ったのだろうか。
レヴィ=ストロースいわく、文化は「借用・模倣・攪拌」によって成長する(うろ覚え)。リチャード・ドーキンスも似たようなことを言っていたと思う。
初音ミクはニコニコ動画というプラットフォームによってこの三点をうまいこと獲得した。
初期のニコニコ動画はユーザーの著作権意識が非常に低く、そのおかげで他人がアップロードしたコンテンツに手を加えて楽しむということがごく当たり前に起こっていた。ニコニコ動画全体で「使用元の動画IDを説明文に加えておけばOK」という空気だったのだ。つまり、「借用」にあたる行為が容易だった。
そのため初音ミク楽曲も歌ったりBGMにしたりということが気軽に行われた。法的にはどう考えてもOKなわけがないのだが、その自由な空気は割と今も維持され、初音ミクは「借用」という性質を維持し続けている。
また、誰かのコンテンツの面白い要素を「模倣」して自分のコンテンツに取り込むということが頻繁に行われた。それはコンテンツの方向性だったり、キャラクター、ビジュアル、小ネタ等で、初音ミクの「ネギ」なんかは「借用」か「模倣」かは曖昧だが、そういった要素を別の人が使ってもあまり「パクリ」とはされなかった。むしろ喜ばしいこととして「模倣」があたりまえになった。
そして「攪拌」である。これは主にランキングや検索結果などによってもたらされた。このニコニコ動画の攪拌作用は多くの文化を生まれさせたほどに強いものである。
初音ミクにこういった「借用・模倣・攪拌」というのが備わっていることはすごすぎるくらいすごい。
しかし、しかしだ。このすごさは初音ミクというより、ニコニコ動画のものだろう。ここに他の初音ミク考察に納得できない点がある。
初音ミク文化についていろいろ言っているものの多くが、「結局はそれって他のニコ動文化と同じってことだよね」という一言に集約されてしまう。「初音ミク」を取り上げて「ニコニコ動画」を語っているにすぎないのだ。ニコニコ動画において同じようにして文化的広がりを持つようになったものは他にもたくさんあり、恐らく多くの言説が初音ミクを「東方project」や「アイマス」、もしくは「パンツレスリング」に置き換えてもだいたいあってる。
あくまでニコニコ動画のすごさに初音ミクが乗っかったのだ。したがって「初音ミクって何がすごいの?」の答えにはまだたどり着かない。
だがすごいのがニコニコ動画だからと言って、ニコニコ動画に乗っかれば何でも流行ったりする訳ではない。やはり初音ミクに何らかのすごさがないと長きに渡って流行り続けるはずがないのだ。
だから一体どういった初音ミクのすごさがニコニコ動画のすごさに乗っかったのかを考えなくてはならない。
歌の向こう側には誰がいるか
で、本題の本題なのである。
僕が思う初音ミクのすごさは、歌に作家性を生じさせたことだ。これは革命的と言ってもいいだろう。
作家性とは、受け手が作品を享受したときに誰を感じるかと言うことだ。ざっくり言えば作品の向こうに誰がいるかということである。
では歌の向こう側にいるのは誰か。それは言うまもなく歌手だ。ごく普通に声を聴いて声の主でなく作曲者の顔が思い浮かぶのは専門家、もしくは天才くらいだろう。そうでなければ病院に行くべき人だ。歌というのはそれほど歌手の存在が大きい。向こう側に歌手が見える音楽を歌と言ってもいいかもしれない。
だが初音ミクの楽曲はどうだろうか。まず聴いて初音ミクの存在が見えるのは確かだろうが、その向こうに作曲者の存在が透けて見えないだろうか。そして最終的に聴き手が見ているのは作曲者ではないだろうか。
たとえば人が歌っているのを聴いて感動したとき、賞賛を送る相手は歌手だろう。そんなことは当たり前じゃないか、と思うかもしれない。
では初音ミクの曲を聴いて感動したとき、聴き手は一体誰に賞賛を送っているか。
初音ミクじゃないのである。
ぞっとするような事実ではないか?
歌なのに。確かに歌なのに、聴き手は初音ミクという歌手を見ていない。
歌なのに、聴き手には歌をデザインした作曲者が見えるのだ。普通そんなのは聴き手が高度な音楽教育を受けていたり作曲者のファンであったり、もしくはよほど曲が奇抜で歌手が没個性である場合に限られる。
要するに歌はそれまでそう簡単に作家性を持ち得ないものだったのだ。どんなにいい歌でも、作家性に満ち溢れた歌でも、「歌手がすごい」が一番に来てしまう。これはシンガーソングライターですら打ち破れなかった壁だ。
その壁を簡単に壊してしまった存在こそ、初音ミクなのだ。
正確に言えば、その壁を透明にした。イメージとしては、初音ミクは歌の向こう側にあるガラスに描かれているのだ。初音ミクは透明なレイヤーであると言ってもいい。そうしてそのさらに奥にいる作者の存在が透けて見えるようになっている。
歌の向こう側に作者が見えるのは、初音ミクが人ではないからということもある。しかし、人ではないが完全に歌手としての個を失っているわけではない。
このバランスも重要だ。歌の向こう側に歌手を全く感じなければ、おそらく聴き手は作曲者の存在が見えてもその歌を歌として受け取ることが難しいだろう。実際初音ミク以前にも歌うソフトはたくさんあったが、初音ミクのような存在にはなれなかった。単なるしゃべる楽器に過ぎず、歌ってもそれは「歌」という表現と似て非なるものなのだ。聴き手は打ち込みの曲を聴いているような印象を受けるかもしれない。
それに対して初音ミクは透明であるが「キャラクター」によって個を維持し、歌の向こう側に歌手として立ち続ける。それによって歌が歌らしさを失わずにいるのだ。これはすごい。いや、これがすごい。
また、初音ミクの人気によりカイトとメイコという過去のボーカロイドもキャラクター性を獲得し、後天的に歌手となってちゃんと「歌」を歌えるようになった。それまではしゃべる楽器でしかなかったように思える。
それだけでなく、今や「ボーカロイド」自体がキャラクター性を帯びており、無名のボーカロイドだろうが本当に単なるしゃべるソフトだろうが、ボカロを聴き慣れている人には歌がちゃんと「歌」として届いているように思える。
「初音ミクって何がすごいの?」にどう答えようか
僕としては上記の「歌に作家性を生じさせた」という答えが一番しっくりくる。
だが、そんなんでいいはずがない。
「初音ミクって何がすごいの?」
「歌に作家性を生じさせた」
……ちょっとノリが違う気がする。何よりわかりにくい。
と言うことで、別の表現を考えてみる。
まず考えられるのは、「再現芸術と創造芸術」という言葉だ。なるべく簡単な言葉と概念を使ってきたが、ちゃんとした言葉で言えばここまでで僕が言ったことは「再現芸術と創造芸術」についてであったと言っても差し支えはない。なので今度はストレートに「再現芸術と創造芸術」という観点で捉え直してみよう。
再現芸術とは演劇や演奏などである。台本や楽譜を再現することで行う表現だ。「演」という字がまさにそういう意味合いで使われているだろう。
一方で創造芸術とは小説や絵画など、作り終わったら作品として完成してそれでお仕舞いという表現だ。
では歌はどちらか。当然演奏と同じく再現芸術だ。それは録音だろうと変わりない。
やはり感銘を受けたときの反応がわかりやすいだろう。歌は「歌ったこと」を褒めるのか、「作ったこと」を褒めるのか。マニアックな人以外は前者だろう。小説や絵画は「発表したこと」でなく、「作ったこと」がまず褒められる。
ところが電子音楽の登場がこの線引きを変えた。音楽でありながら演奏者の存在を消し、作者の存在を浮き彫りにした。CDに収録された表現は「曲の再現」でなく、「創造した曲」になった。
だが「歌」という特殊な存在を創造芸術にすることはできなかった。ソフトに歌わせて創造芸術に変わったら「歌」という感じでなくなってしまったのだ。
で、そこに初音ミクがやってきて歌を創造芸術に変えることに成功してしまったのだ。歌でありながら「歌う」という再現芸術の要素を消し、それでいて歌手の存在は消さないことで、歌は創造芸術になっても歌であり続けた。
というわけで、これが回答の二つ目の候補。
「初音ミクって何がすごいの?」
「歌を再現芸術から創造芸術に変えた」
おわかり頂けただろうか?
言葉が変わっているだけでノリは変わっていないのだ。こんなの口頭でいきなり言われても納得できるはずがない。
なのでもう少し考えてみる。
ここまで言ってきたことをまとめると、歌を創造芸術に変えて作家性を生じさせたということであり、要するに歌において歌手じゃなく作者の個を押し出せるようになったということだ。さらに言えば、歌が歌手でなく作者のものになったということだ。
それを踏まえるとこうだ。
「初音ミクって何がすごいの?」
「歌の主役を歌手から作曲者に変えた」
だいぶわかりやすい感じになったのではないだろうか。
とりあえず僕にはここまでが限界だ。ここから先は本気で調べたりなんやかんやしないと難しい。「熱心なファンではないが初音ミク楽曲はたくさん知っている」という程度の超ぬるい初音ミクリスナーである僕にとって、それはかなり大変なことだ。それにそこまで本気出して取り組んでしまったら楽しくなくなる。
よって「歌の主役を歌手から作曲者に変えた」を「初音ミクって何がすごいの?」に対する「それっぽい答え」として僕は掲げたい。「明確な答え」は他の人に任せた。
おまけ
というわけでこのエントリーの主題は解決(?)したのだが、ちょこっとおまけ。
今あるものにああだこうだ言うものいいが、なんかこう、無駄に未来へ向かって考えたりもしてみたいのだ。建設的な意見と言うほどに建設的ではないが、とりあえずなんか言っておきたい。
初音ミクがこの先生きのこるには
かつて作曲者は打ち込みやシンセサイザー等で曲において作家性を獲得した。これはすごいことであったはずだ。今や電子音楽の分野は強烈な自我の発露の場である。「エレクトロニカ」なんていうキラキラしてそうなジャンル名の割に、どこまでも内省的な曲を作れるからだ。
そして今度は初音ミクによって作曲者は作家性を獲得したのだ。
ただ、問題がある。電子音楽と違い、初音ミクはあまりにもサブカルチャーに寄りすぎている。オタク寄りと言ってもいいだろう。
それ自体は別に悪いことではない。しかし、そのままではやはり面白くない。現状ではもともと免疫や適正がある場合以外、初音ミクのオタク的要素に慣れ、歌声に耳で慣れ、そこからでないと初音ミクの良さを味わうことが難しい。それでは電子音楽ほどの衝撃を世界に与えられない。ごく自然に聴けてしまえて、それでいて何よりも新しい。初音ミクがそんなレベルまで達すればきっと世界を変えられる。
そのためには技術的な面でさらに向上しなければならないのは当然だが、それよりも文化的な地位を獲得することが必要だと思う。
初音ミクを指し示す言葉が「初音ミク」「ボーカロイド」なんていう狭い範囲の言葉だけではいけない。もっと広い範囲を指し示す言葉を獲得しなければならない。言うなれば、「ボーカロイド」よりさらに上の階層に位置するタグだ。そうしてその言葉で一般的な音楽の一角に場所を得れば、そこから初音ミクと一般的な音楽は今のような隔絶された関係でなく、シームレスになるだろう。
電子音楽で言えばそれは「テクノ」という言葉だ。電子音楽と言っても千差万別でそう簡単に十把一絡げには言えないし、他に的確な言葉はあるかもしれないが、少なくとも世間一般にはその言葉が電子音楽の概念を与えた。そうなってしまえばもはや人の頭の中に席を得たようなもので、今日のようにJ-POPに何の楽器か全く不明な「テクノ」っぽい音があってもごく自然に受け入れられる。
だから初音ミクは世間一般の末席に座るための言葉を獲得すべし!
おわり!
VOCALOID2 キャラクターボーカルシリーズ01 初音ミク HATSUNE MIKU
- 出版社/メーカー: クリプトン・フューチャー・メディア
- 発売日: 2007/08/31
- メディア: CD-ROM
- 購入: 30人 クリック: 4,650回
- この商品を含むブログ (524件) を見る
【追記】
・僕がかなりいい加減に書いている部分を真面目に書いてくれている記事。
初音ミクと見せかけの魔法
・この記事の本文では面倒なので省きましたが、初音ミクの発売当初はキャラクターの側面が強くて作家性が透けて見えることはなかったと思います。最初から「しゃべる楽器」ではなかったのですが、逆に「歌うキャラクター」でした。つまりまだ歌手>作家の構図を打ち破れなかったのです。
では一体どのようにして打ち破ったのかは下記のエントリあたりで。
初音ミクという神話のおわり
・さんざん理屈をこねて遊んでますが、僕としてはやっぱり歌のチープ革命が初音ミクの一番すごいところかなぁと思っています。
つまり、「初音ミクがあれば歌がうまくなくてもいいし、そもそも歌わなくても自分の歌を発表出来るんだよ。すごくね?」という感じの答えですかね。
ありきたりで大して面白くもない回答ですね。
今後「初音ミクって何がすごいの?」に対するもっともっと面白い回答を誰かがしてくれることを願っています。
というわけでウェブ研イチオシサービス、
即興小説トレーニング
もよろしく!
Twitter連携アプリを利用するなら知っておきたい108のこと
文責:ウェブ研プログラマー
はじめに
ここ数日で話題になっているTwitter連携アプリに「日頃の行いおみくじ」がありますが、「日頃の行いおみくじはスパムだ!」というツイートが拡散されまくって悲しい感じになっています。
ウェブ研でもTwitter連携アプリを作成していますし、あらぬ誤解をうけるアプリケーションが減ればいいな(ついでに宣伝もできればいいな)と思い、ユーザ向けに、OAuthを利用したコラボアプリのものすごくざっくりとした解説記事を書いてみました。
次のような構成になっています。
・OAtuhのものすごくざっくりとした説明
・Twitter連携アプリ固有の話
・ユーザはどうしたらいいか
※随所にウェブ研の宣伝が散りばめられてます
お、OAuth…?
Twitterアカウントでログイン、FacebookアカウントでログインといったことができるアプリケーションではOAuthという規約が使われています。
OAuthでは3人の登場人物がいます。
- 大元のサービス(TwitterやFacebook等)
- 連携アプリケーション(今日のスタンドやチョイQや即興小説トレーニング等)
- ユーザ
ものすごくざっくりと言うと、いわゆるOAuth認証では
「ユーザの同意のもと、ユーザが許可している間、大元のサービスでの一部の『何かをできる権限』を連携アプリケーションに渡す」
という事(認可)が行われています。これを安全に行うための工夫がなされていますがここでは省きます。
渡しているのは「何かをできる権限」であって「大元のサービスのパスワード」ではないので連携アプリケーションはパスワードを知りませんし、何でもできるわけではありません。
しかし、その気になれば「何かをできる権限」の範囲内では何でもできるということになります。
Twitter連携アプリケーションの場合
Twitter連携アプリ作成のためにTwitterが提供してるTwitter APIの場合、
「何かをできる権限」が段階的な3種類しか用意されてません
- 読み込みのみ
- 読み込みと書き込み(DM含まず)
- 読み込みと書き込み(DMを含む)
実際に行えること、連携アプリの認証画面は
1.読み込みのみ
タイムライン、リスト、ユーザのプロフィール、フォローしてる人、フォロワー、ブロックしてる人を見る等
2.読み込みと書き込み(DM含まず)
1に加えてツイートの投稿、削除、リストの作成、削除、リストへのユーザの追加、削除、フォロー、フォロー解除、ブロック、ブロック解除、プロフィール変更等
3.読み込みと書き込み(DMを含む)
2に加えてダイレクトメッセージの閲覧、送信、削除
となります。
このように多くの権限がセットになっているため、Twitter連携アプリケーションは必要以上の権限を委譲してもらわざるをえない状況にあります。
ちなみに、いままでのTwitter API v1.0では「今日の一文字」のように読み込みの一部は認証しなくても使えますが、今年2013年の3月5日からは完全にTwitter API v1.1に移行し、ツイート情報を使うアプリでは全て認証が必要になります。認証なしでも使えるのは「桶屋」のように、ツイート情報を使わないで、ツイートはTwitterを使って行う、といったものになります。
ユーザはどうしたら?
安易に認証せずどれだけの権限を渡しているのかをよく見る
必要以上の権限を要求してくるアプリケーションは疑ったほうが良いですが、即スパム認定は早計です。仕様上、仕方のない場合もあります。パスワードを渡すわけではないので、アカウントが完全に乗っ取られるということはありませんが、前述のとおり、その気になれば渡した権限の範囲内では何でもできてしまうので認証は慎重に。
アプリケーション作成者が信用できるか調べてみる
ウェブ研は信用できるのでこの壺を(ry
認証してしまったが信用出来ないと思ったらすぐに連携を解除する
連携を解除すればその後アプリケーションは何もできません。渡した権限で見れる情報のなかにパスワードが書いてあるのでもない限り、パスワードを変更する必要はありません。
利用しなくなったアプリケーションは連携を解除しておく
Twitterの場合連携しているアプリケーション一覧はここからみることができます
→https://twitter.com/settings/applications
以上です。
Twitterが、渡す権限をより細かい区分に分けてくれれば良いのですが、現状では3段階の内から選ぶしかありません。
信用を得るためにも開発者側も、区分の中でもどの権限を使うのかということを明記した方が良いですね。ウェブ研のアプリケーションにも早急に追加したいと思います。
「日頃の行いおみくじ」がスパム認定されたのには挙動が不安定だったこともあったようですが、
かく言うウェブ研も「今日のスタンド」で短い間でしたが意図せず矢を撃ちまくってしまったことがあったので他人事ではありませんでした。
→ http://togetter.com/li/394932
ネタにしてくれるおおらかな方で良かったのですが、その節は本当にご迷惑をおかけしました。もちろん現在はこのようなことが起こらないようにサーバ移転し、コードも修正してあります!
あ、あとついでにもう一つ宣伝させてもらうと
「より良い作品を創れるようになるのに最も効果的な方法は、一度生み出したものを大事にすることでなく、何度も生み出し、『生み出す』ことにおいて上達することである」
という思想のもとにWebサービスを作りました。
「即興小説トレーニング」、「即興イラストトレーニング」です。
与えられたお題、制限時間で作品を創り、同じ時間帯に挑戦した人は同じお題という、歌会のような形式になっています。ものすごいドキドキ感で、創作クラスタの方はもちろん、普段創作をしない方でも楽しめるサービスになってると思います。
宣伝ばっかりでサーセンwww
ウェブ一般交換論
(以前投稿した記事を再掲)
2009年に書いた試論に少しだけ手を加えたもの。
「一般交換」って知ってますか?
流行るウェブサービスは多くが「一般交換」の構造を持っている。
しかし、しかしだ。一般交換について語る人は少ない。
ということで語る。
限定交換と一般交換
我々が普段利用しているほとんどのウェブサービスはコミュニケーションツールであると言える。しかし、これでは言葉が足りない。「コミュニケーション」とは情報などの「交換」のことであり、その「交換」には二種類ある。
一つは限定交換だ。一対一の交換、直接交換、等価交換などいくらでも表現出来る、ごく一般的な意味での交換だ。
そしてもう一つは一般交換である。一般交換は双方向のやり取りというよりも一方的に与えるだけで、集団の構成要因が非対称に与え合うことで交換として観測される。
例えばAがBに与え、BはCに与え、CはAに与えるとする。AとB、BとCなどの一対一の関係を一つの単位として考えれば交換は行われていないが、集団ABCを一つの単位として考えれば交換がなされたと見ることが出来る。このようにミクロでは贈与で、マクロだと交換となるのが一般交換である。
この一般交換は人間が社会を構成するための機能と言ってもいい。限定交換だと行為が二者間で完結してしまうが、一般交換だと集団を必要とする。言い換えれば一般交換が行われるとそこに社会が生まれるのだ。そして社会を形成するのは人間の本質であり、人は常にその方向へ進む。
集団内で限定交換をさせた場合と一般交換をさせた場合で、どちらがより自分の集団内の人間を信頼するかという実験だと、限定交換は内外の人間に差を与えないが、一般交換だと集団内の人間をより信頼する傾向がある。
身近なことに例えれば、コンビニ店員と同僚で比べてみよう。毎日利用するコンビニがあり、そこに毎日顔を合わせる店員がいる。一方で、一度も話したことのない同僚がいる。
さて、どちらがより信頼出来ると感じるか。大抵の人が後者だろう。前者は二者間の限定交換だけの関係で、後者は会社という集団で情報を非対称に与え合う、一般交換だけの関係である。後者とは一対一の関係を持ったことがないにも関わらず、より信頼出来るのだ。
つまり、一般交換は限定交換より人を惹きつける。(※ちょっとたとえが悪いかもしれない)
ツイッターは出るべくして出た
限定交換の構造を持つ代表的なコミュニケーションツールはチャットである。相手に言葉を与え、相手から言葉を受け取る。「やり取り」をするツールだ。
では一般交換の構造を持つコミュニケーションツールは何か。
一般交換の構造そのものであり、最もわかりやすいのがツイッターである。
個々人は本当に言葉を一方的に発するだけである。一対一の関係ではないので返事を待つものでもなく、言葉の内容も大したものではない。
しかし、フォローすることで他者の一方的な言葉を受け取る。マクロに見れば言葉は交換され、一般交換となる。発言に対し返信をする、限定交換の機能もあるが、なくなってもツイッターの本質は変わらない。利便性のために後から付けたおまけ機能に過ぎない。
ツイッターのシステム自体は非常にシンプルだ。一般交換の構造をそのままプログラム化したようなものなのだ。まるで開発者は社会学か人類学を学び、一般交換をシンプルにモデル化してプログラムに変換し、流行ると知っていてリリースしたかのようだ。
一方チャットは限定交換の構造をそのままプログラム化したものと言える。しかし、こちらは利便性から遍在しているものの、「流行っている」という表現にはそぐわない。
一般交換の構造を持つシステムはまだある。その最たるものがニコニコ動画のコメント機能である。同期ではないため、一対一のやり取りはほぼ不可能で、実際にはコメント機能で出来ることは一方的な発言だけなのだ。それによってコメント機能の構造は純粋な一般交換に近いものとなっている。
ニコニコ生放送のコメントだと同期しているため限定交換が可能となるが、人が集まるほど個の特定が面倒でやはり限定交換は非常に難しいため、非同期のコメントと同じように機能し、そこで行われているのは一般交換だと言える。
視聴者の人数が少なければ例外的に限定交換が容易となるが、それは「馴れ合い」と呼ばれ、やはり例外的な扱いを受ける。また後述の理由もあり、そういった一般交換用のシステムの上で行われる限定交換に嫌悪感を抱く人もいる。
したがってニコニコ動画は基本的に一般交換のシステムなのだ。だからドワンゴが「ニコニコする」と表現している、何かにコメントを付けるという行為の本質は、一般交換を行うということかもしれない。
しかし、ドワンゴが最近推し進めているリアルとの繋がりを深める事業は、しっかり考えてやらないと限定交換寄りのシステムとなってしまう。そのせいで現時点でも「なんか違うんじゃないか?」と思っている人もいるだろうし、嫌悪する人もいるだろう。
まぁ、しっかり考えながら試行錯誤すれば、ドワンゴなら上手くやるんじゃね? というのが私の考えではあるけれど。
一般交換は流行る。流行るは一般交換
2ちゃんねるなどの掲示板のシステムは、ほぼ一般交換と言える。スレッドは特定の個人とのやり取りの場ではない。スレッドは集団を規定するための区切りである。書き込みは基本的にその集団自体に向けられたもので、個人に対するものではない。また、個人に対して発しても集団の構成要員にも平等に届いてしまうので限定交換の要素は薄れる。
チャット、掲示板、ツイッター、これらは文字を時系列順に並べるだけのシステムだ。構成している要素はどれも同じだ。しかし、構造に限定交換と一般交換という大きな差がある。そして限定交換のチャットは流行らず、一般交換の掲示板とツイッターは流行った。これは偶然ではないはずだ。一般交換は流行るのだ。
限定交換はやはり二者の間で完結してしまうのが流行らない理由だろう。そして集団を形成しない。それに対し一般交換は必ず集団を形成する。したがって一般交換は社会を形成するアーキテクチャと考えられる。ならば人が常に社会を作ろうとする限り、そのためのアーキテクチャを獲得しようとするのは当然の流れだろう。そして「流行」という現象自体もまた一般交換であり、社会を作るアーキテクチャなのである。
CGMも一般交換
ニコニコ動画のようなユーザーがコンテンツをアップロードして作られるメディア、CGM(コンシューマージェネレイテッドメディア)もまた、一般交換と言える。アップロード者が出来ることはアップロード、つまり与えることだけであり限定交換は出来ない。ニコニコ動画の場合、そこにコメント機能があり、さらなる一般交換のレイヤーが加えられている。集団を意識させるアーキテクチャが二重に働いているのだから、非同期にも関わらずあの異常な一体感、連帯感、共有感が生まれるのも当然だろう。
嫌儲の正体
CGMで良質なコンテンツがあると、享受したユーザーは何らかの報酬を与えたくなる。それは人間の持つ互酬性に由来する感情だ。贈り物をもらったらお返しをしたくなる、あの感じだと思っていい。
しかし運営サイドが「それならばアップロード者にお金が行くようにしようか」という話をすると、途端に反感を買う。「嫌儲」というやつである。
嫌儲はネットの性質だと考える人が多い。だがそうではない。嫌儲はCGMの性質なのだ。
そもそも嫌儲は何を嫌っているのか。ユーザーが金儲けすることでもなく、他人の幸福でもない。コンテンツに相応の対価が支払われることだ。
それは何を意味するのか。等価交換であり、つまりは限定交換なのである。対価によって一般交換であるものが限定交換に変わってしまうのだ。そのせいで集団の構成要員は嫌悪感を感じてしまう。
人は社会性を持つ生き物で、一度作られた集団には個人の意思とは関係なく、その集団を維持しようとする力(※学術的名称は忘れた)が働く。
したがってその集団を形成するアーキテクチャである一般交換にも維持の力は働く。そして一般交換のシステムであるCGMにおいて、それが一般交換でなくなろうとする力が働いた場合、構成要員は一般交換を維持しようと反発する。それが嫌儲の正体だ。決して嫉妬なんかではない。
(まぁ、中には本気で嫉妬している人も少なからずいるだろうけど、それは個人の人格の問題なのでどうしようもない)
ネットにはCGMが多く、一般交換が盛んに行われている。また、人が意見を交わす場所は大体CGMである。それによって嫌儲がネット自体の性質だと誤解する人が多いのだ。
CGMでなく、かつ一般交換にも当てはまらなければ嫌儲の性質は現れない。初めから商品の販売を目的とした場所なら、コンテンツに対価を払うことに反発はないのだ。だが今現在、ネットで商業デジタルコンテンツがあまり売れていない。その点からネット全体に嫌儲が蔓延していると考えてしまう人もいるだろうが、私は違うと言いたい。
ニコニ広告はすごい
良質なコンテンツに出会ったとき、人はどうしても互酬性から来る感情を抱いてしまう。何か与えたくなってしまうのだ。それが「自分もアップロードしたい」というクリエイティブな方向へ進めばCGMにおける一般交換の好循環への一因となり得る。しかし、互酬性がクリエイティブに作用する人間の割合はそれほど多くない。大抵の人間は互酬性を持て余している。
その余った互酬性を収益に変換する装置がニコニ広告である。ニコニ広告とは、ユーザーがお金を払って気に入った動画を宣伝できる機能である。そのお金は全額運営に渡る。一見ふざけたシステムにも思えるが、実は優れた構造を持っている。
アップロード者にお金が行くシステムだと限定交換となってしまうが、全額運営に行くために完全な一般交換になっているのだ。ニコニコ動画が作る社会を前述した集団ABCに当てはめればわかりやすい。
まずA(運営)がB(アップロード者)に発表の場を与える。B(アップロード者)はC(ユーザー)にコンテンツを与える。C(ユーザー)はA(運営)にお金を与える。見事である。ニコニ広告のビジネスモデルは実に見事である。CGM、コメント機能の上に乗っかる第三の一般交換レイヤーだ。
ネットでお金を使う人が少ない現状でそれなりに成功してるのだから、今後ネットでの商業が発展し、ネットでお金を使う人が増えればニコニ広告はかなりの収益を得られるに違いない。それほど一般交換というのは誰にでも作用する、強い力なのだ。コミュニケーションを軸としたウェブビジネスを展開する場合、成功するか否かは一般交換というアーキテクチャの有無に懸かっていると言っても過言ではない。
(この部分も2009年に書いたのだが、ニコニ広告は2012年になってもやはり好調のようである)
企業がCGMで儲けるには
企業がCGMで儲けるには、やはり広告だけでは厳しいものがある。何とかしてユーザーから直接お金を頂戴しなければならない。
しかし、投げ銭のようにコンテンツへの対価を払うシステムを作るとアップロードという行為自体が一般交換ではなく限定交換的な意味合いを帯びてしまい、嫌儲の問題が出てくる。
有料会員制もよくある手だろう。たしかにプレミアム会員の仕組みはCGMで儲けるための一つの答えである。しかし、それはあくまで一部の超人気サイトに限る話であり、多くのCGMに当てはまるような、普遍的な答えではない。それはニコニ広告のようなシステムも同じで、人気を利用した力技は常套手段であるが普遍性に乏しいのだ。
ではその答えはどこにあるのか。やはり一般交換しかないのである。一般交換システムの中で儲けるには、一般交換システムの儲け方しかないのだ。つまりはお金の支払いを一般交換的にするのだ。
わかりやすく言うと、ユーザーに「対価を支払う」と感じさせない方法でお金を使わせるのだ。不特定多数の間でお金を「与え合う」と感じさせるシステムだ。
もちろん結果としては投げ銭させて手数料を取るのと何ら変わらない。しかし、ユーザーの心理としては全く別物だろう。おそらく「投票」や「投資」に近い感覚でお金を使うことになる。
そうやって一般交換的にお金を使わせる方法はいろいろあるだろう。自分自身で手を出してみたい領域でもあるのであえて具体的には言わないが、とにかく各企業の創意工夫によって様々な一般交換的な金銭巻上げシステムを作り出せるはずである。だから企業には諦めの言葉として「ネットは儲からない」だなんて言わないでもらいたい。
それにさ、同じことグーグルの前でも言えんの?
私が一番言いたいこと
それにしてもネットと交換論を絡めて論じる人がいない。ツイッターと一般交換を絡める人も見つけられずにいる。私としてはもっとモースやレヴィ=ストロースのコミュニケーション論とネットを絡めて論じてくれる人が増えてほしい。私には大した学術的知識もなく、運用できるのは新書で読んだ程度の知識だけだからである。要は本読み漁るのめんどいから教えて! という訳である。
と、述べてみたものの、一番言いたいことはそこじゃない。
私が言いたいのは以下である。
現状、わりとネットは儲からない。
それは認めなければならない。ウェブで人がダイナミックに活動しているのに経済活動はそこまで活発ではないのだ。
しかし間違っている。それは絶対に間違っている。
だから私は「儲からないネット」へのレジスタンスでありたいのだ。
ウェブで生きることが、リアルで生きることに繋がるようにしたいのだ。
こんな「儲からないネット」なんか、爆破してやりたいのだ!