「初音ミクって何がすごいの?」という問いに答えられるか
――初音ミクって何がすごいの?
もしあなたがそう問われたら、どう答えるだろうか。
もしくはあなたがそんな疑問を抱いたとき、どんな答えなら納得するか。
少なくとも僕は明確な答えを提示できないし、すんなり納得できる答えに出会ったこともない。
しかし過去のツイートなどを元に、僕が今まで初音ミクに対して思ったことをはっきりさせてみたい。
調教されているのはどっち?
ここでなぜ僕は「ボーカロイド」というくくりでなく「初音ミク」というくくりで語るのかを言っておこう。
僕は各ボーカロイドに差異化するほどの個性はないと思っている。
初めて鏡音リンの声を聴いたとき、「初音ミクじゃん」と僕は思った。そして他の新ボーカロイドが出てきたときも似たようなことを何度か思ったことがある。ニコニコ動画のコメントでも同じようなことを思った人はちらほらいた気がする。
今からするとそれは実に不思議である。初音ミクと鏡音リンの声は全然違う声なのだ。なのに同じように聞こえていた。
おそらく、僕は単なる慣れによって聞き分けられるようになった。よほど初音ミクを聴き込んでいる人はちょっとの違いがあれば即座に他のボーカロイドだと認識できるだろうが、ぬるい初音ミクリスナーはきっと僕と似たようなものだろう。
つまり客観的にはボーカロイド間に大きな差などなく、実際は声の個性など微々たるものなのだ。あくまでリスナーが慣れによって見出しているものであり、世間一般に聴かせても揺るがないほどの特徴はない。
だから僕はここでボーカロイド全般を語るにしても「初音ミク」でくくってしまおうと思う。
それにまぁ初音ミクという存在が一番象徴的でわかりやすいんだし、いいよね?
ぶっちゃけて言えば
さて、本題に入ろう。
ぶっちゃけて言えば初音ミクの「歌声」はすごくない。
技術的にすごいのは確かだし、ボーカロイド間の差は乏しいとしてもロボ声とアニメ声の絶妙なバランスを成し遂げて全体として「ボカロ声」とも言えるような個性を獲得しているのはめちゃくちゃすごい。それは人と同じ土俵に立つ資格が十分にあると思えるくらいすごい。
しかし、人と同じ土俵に立てるからと言って、人に勝てるわけじゃない。人とかソフトとか考えず純粋に「歌声」として聴けば、初音ミクがすごいとは到底言い難い。
ボカロ声やキャラクター性が少なからず初音ミクの魅力となっているのは確実だろうが、「初音ミクって何がすごいの?」と聴かれて「歌声がすごい」と答えるのはどうも的確ではなさそうだ。
初音ミクはビジュアルだけで勝負できただろうか
初音ミクは一目で初音ミクとわかるビジュアルである。しかし、ビジュアルがすごいから初音ミクがすごいという訳でもないのはまぁ明白だろう。
言葉は悪いが、「いかにもオタクっぽい感じ」を上手くまとめたという風なキャラクターデザインなのである。
その点が後述する初音ミクのすごさに寄与しているとは思うが、やっぱり「初音ミクはビジュアルがすごいからすごい」とは言い難い。
文化的広がりは間違いなくすごい
初音ミクのすごさは文化的広がりだと言っても過言ではない。本当にすごいのだ。
文化的広がりとは、いちいち書いて説明するのが面倒なくらい裾野の広い二次的創作だ。二次創作と言うとまた別の意味を帯びてしまうので、二次的創作と言っておく。
具体的には初音ミクを一種のジャンルとした音楽、動画、イラスト、漫画、小説等である。ネットでよく見かけるだろう。それらは互いに影響しあい、そして発展している。ただの音楽ソフトがこうなるというのはとてつもなくすごい。
しかし、「初音ミクって何がすごいの?」という問いは「初音ミクって何であんなにすごい文化的広がりを成し遂げてるの?」という要素を多分に含んでいるため、「文化的広がりがすごいから初音ミクはすごい」と答えるのはちょっと間違っているだろう。
借りて・真似して・流行って
ではなぜ初音ミクはそういった文化的広がりを持つに到ったのだろうか。
レヴィ=ストロースいわく、文化は「借用・模倣・攪拌」によって成長する(うろ覚え)。リチャード・ドーキンスも似たようなことを言っていたと思う。
初音ミクはニコニコ動画というプラットフォームによってこの三点をうまいこと獲得した。
初期のニコニコ動画はユーザーの著作権意識が非常に低く、そのおかげで他人がアップロードしたコンテンツに手を加えて楽しむということがごく当たり前に起こっていた。ニコニコ動画全体で「使用元の動画IDを説明文に加えておけばOK」という空気だったのだ。つまり、「借用」にあたる行為が容易だった。
そのため初音ミク楽曲も歌ったりBGMにしたりということが気軽に行われた。法的にはどう考えてもOKなわけがないのだが、その自由な空気は割と今も維持され、初音ミクは「借用」という性質を維持し続けている。
また、誰かのコンテンツの面白い要素を「模倣」して自分のコンテンツに取り込むということが頻繁に行われた。それはコンテンツの方向性だったり、キャラクター、ビジュアル、小ネタ等で、初音ミクの「ネギ」なんかは「借用」か「模倣」かは曖昧だが、そういった要素を別の人が使ってもあまり「パクリ」とはされなかった。むしろ喜ばしいこととして「模倣」があたりまえになった。
そして「攪拌」である。これは主にランキングや検索結果などによってもたらされた。このニコニコ動画の攪拌作用は多くの文化を生まれさせたほどに強いものである。
初音ミクにこういった「借用・模倣・攪拌」というのが備わっていることはすごすぎるくらいすごい。
しかし、しかしだ。このすごさは初音ミクというより、ニコニコ動画のものだろう。ここに他の初音ミク考察に納得できない点がある。
初音ミク文化についていろいろ言っているものの多くが、「結局はそれって他のニコ動文化と同じってことだよね」という一言に集約されてしまう。「初音ミク」を取り上げて「ニコニコ動画」を語っているにすぎないのだ。ニコニコ動画において同じようにして文化的広がりを持つようになったものは他にもたくさんあり、恐らく多くの言説が初音ミクを「東方project」や「アイマス」、もしくは「パンツレスリング」に置き換えてもだいたいあってる。
あくまでニコニコ動画のすごさに初音ミクが乗っかったのだ。したがって「初音ミクって何がすごいの?」の答えにはまだたどり着かない。
だがすごいのがニコニコ動画だからと言って、ニコニコ動画に乗っかれば何でも流行ったりする訳ではない。やはり初音ミクに何らかのすごさがないと長きに渡って流行り続けるはずがないのだ。
だから一体どういった初音ミクのすごさがニコニコ動画のすごさに乗っかったのかを考えなくてはならない。
歌の向こう側には誰がいるか
で、本題の本題なのである。
僕が思う初音ミクのすごさは、歌に作家性を生じさせたことだ。これは革命的と言ってもいいだろう。
作家性とは、受け手が作品を享受したときに誰を感じるかと言うことだ。ざっくり言えば作品の向こうに誰がいるかということである。
では歌の向こう側にいるのは誰か。それは言うまもなく歌手だ。ごく普通に声を聴いて声の主でなく作曲者の顔が思い浮かぶのは専門家、もしくは天才くらいだろう。そうでなければ病院に行くべき人だ。歌というのはそれほど歌手の存在が大きい。向こう側に歌手が見える音楽を歌と言ってもいいかもしれない。
だが初音ミクの楽曲はどうだろうか。まず聴いて初音ミクの存在が見えるのは確かだろうが、その向こうに作曲者の存在が透けて見えないだろうか。そして最終的に聴き手が見ているのは作曲者ではないだろうか。
たとえば人が歌っているのを聴いて感動したとき、賞賛を送る相手は歌手だろう。そんなことは当たり前じゃないか、と思うかもしれない。
では初音ミクの曲を聴いて感動したとき、聴き手は一体誰に賞賛を送っているか。
初音ミクじゃないのである。
ぞっとするような事実ではないか?
歌なのに。確かに歌なのに、聴き手は初音ミクという歌手を見ていない。
歌なのに、聴き手には歌をデザインした作曲者が見えるのだ。普通そんなのは聴き手が高度な音楽教育を受けていたり作曲者のファンであったり、もしくはよほど曲が奇抜で歌手が没個性である場合に限られる。
要するに歌はそれまでそう簡単に作家性を持ち得ないものだったのだ。どんなにいい歌でも、作家性に満ち溢れた歌でも、「歌手がすごい」が一番に来てしまう。これはシンガーソングライターですら打ち破れなかった壁だ。
その壁を簡単に壊してしまった存在こそ、初音ミクなのだ。
正確に言えば、その壁を透明にした。イメージとしては、初音ミクは歌の向こう側にあるガラスに描かれているのだ。初音ミクは透明なレイヤーであると言ってもいい。そうしてそのさらに奥にいる作者の存在が透けて見えるようになっている。
歌の向こう側に作者が見えるのは、初音ミクが人ではないからということもある。しかし、人ではないが完全に歌手としての個を失っているわけではない。
このバランスも重要だ。歌の向こう側に歌手を全く感じなければ、おそらく聴き手は作曲者の存在が見えてもその歌を歌として受け取ることが難しいだろう。実際初音ミク以前にも歌うソフトはたくさんあったが、初音ミクのような存在にはなれなかった。単なるしゃべる楽器に過ぎず、歌ってもそれは「歌」という表現と似て非なるものなのだ。聴き手は打ち込みの曲を聴いているような印象を受けるかもしれない。
それに対して初音ミクは透明であるが「キャラクター」によって個を維持し、歌の向こう側に歌手として立ち続ける。それによって歌が歌らしさを失わずにいるのだ。これはすごい。いや、これがすごい。
また、初音ミクの人気によりカイトとメイコという過去のボーカロイドもキャラクター性を獲得し、後天的に歌手となってちゃんと「歌」を歌えるようになった。それまではしゃべる楽器でしかなかったように思える。
それだけでなく、今や「ボーカロイド」自体がキャラクター性を帯びており、無名のボーカロイドだろうが本当に単なるしゃべるソフトだろうが、ボカロを聴き慣れている人には歌がちゃんと「歌」として届いているように思える。
「初音ミクって何がすごいの?」にどう答えようか
僕としては上記の「歌に作家性を生じさせた」という答えが一番しっくりくる。
だが、そんなんでいいはずがない。
「初音ミクって何がすごいの?」
「歌に作家性を生じさせた」
……ちょっとノリが違う気がする。何よりわかりにくい。
と言うことで、別の表現を考えてみる。
まず考えられるのは、「再現芸術と創造芸術」という言葉だ。なるべく簡単な言葉と概念を使ってきたが、ちゃんとした言葉で言えばここまでで僕が言ったことは「再現芸術と創造芸術」についてであったと言っても差し支えはない。なので今度はストレートに「再現芸術と創造芸術」という観点で捉え直してみよう。
再現芸術とは演劇や演奏などである。台本や楽譜を再現することで行う表現だ。「演」という字がまさにそういう意味合いで使われているだろう。
一方で創造芸術とは小説や絵画など、作り終わったら作品として完成してそれでお仕舞いという表現だ。
では歌はどちらか。当然演奏と同じく再現芸術だ。それは録音だろうと変わりない。
やはり感銘を受けたときの反応がわかりやすいだろう。歌は「歌ったこと」を褒めるのか、「作ったこと」を褒めるのか。マニアックな人以外は前者だろう。小説や絵画は「発表したこと」でなく、「作ったこと」がまず褒められる。
ところが電子音楽の登場がこの線引きを変えた。音楽でありながら演奏者の存在を消し、作者の存在を浮き彫りにした。CDに収録された表現は「曲の再現」でなく、「創造した曲」になった。
だが「歌」という特殊な存在を創造芸術にすることはできなかった。ソフトに歌わせて創造芸術に変わったら「歌」という感じでなくなってしまったのだ。
で、そこに初音ミクがやってきて歌を創造芸術に変えることに成功してしまったのだ。歌でありながら「歌う」という再現芸術の要素を消し、それでいて歌手の存在は消さないことで、歌は創造芸術になっても歌であり続けた。
というわけで、これが回答の二つ目の候補。
「初音ミクって何がすごいの?」
「歌を再現芸術から創造芸術に変えた」
おわかり頂けただろうか?
言葉が変わっているだけでノリは変わっていないのだ。こんなの口頭でいきなり言われても納得できるはずがない。
なのでもう少し考えてみる。
ここまで言ってきたことをまとめると、歌を創造芸術に変えて作家性を生じさせたということであり、要するに歌において歌手じゃなく作者の個を押し出せるようになったということだ。さらに言えば、歌が歌手でなく作者のものになったということだ。
それを踏まえるとこうだ。
「初音ミクって何がすごいの?」
「歌の主役を歌手から作曲者に変えた」
だいぶわかりやすい感じになったのではないだろうか。
とりあえず僕にはここまでが限界だ。ここから先は本気で調べたりなんやかんやしないと難しい。「熱心なファンではないが初音ミク楽曲はたくさん知っている」という程度の超ぬるい初音ミクリスナーである僕にとって、それはかなり大変なことだ。それにそこまで本気出して取り組んでしまったら楽しくなくなる。
よって「歌の主役を歌手から作曲者に変えた」を「初音ミクって何がすごいの?」に対する「それっぽい答え」として僕は掲げたい。「明確な答え」は他の人に任せた。
おまけ
というわけでこのエントリーの主題は解決(?)したのだが、ちょこっとおまけ。
今あるものにああだこうだ言うものいいが、なんかこう、無駄に未来へ向かって考えたりもしてみたいのだ。建設的な意見と言うほどに建設的ではないが、とりあえずなんか言っておきたい。
初音ミクがこの先生きのこるには
かつて作曲者は打ち込みやシンセサイザー等で曲において作家性を獲得した。これはすごいことであったはずだ。今や電子音楽の分野は強烈な自我の発露の場である。「エレクトロニカ」なんていうキラキラしてそうなジャンル名の割に、どこまでも内省的な曲を作れるからだ。
そして今度は初音ミクによって作曲者は作家性を獲得したのだ。
ただ、問題がある。電子音楽と違い、初音ミクはあまりにもサブカルチャーに寄りすぎている。オタク寄りと言ってもいいだろう。
それ自体は別に悪いことではない。しかし、そのままではやはり面白くない。現状ではもともと免疫や適正がある場合以外、初音ミクのオタク的要素に慣れ、歌声に耳で慣れ、そこからでないと初音ミクの良さを味わうことが難しい。それでは電子音楽ほどの衝撃を世界に与えられない。ごく自然に聴けてしまえて、それでいて何よりも新しい。初音ミクがそんなレベルまで達すればきっと世界を変えられる。
そのためには技術的な面でさらに向上しなければならないのは当然だが、それよりも文化的な地位を獲得することが必要だと思う。
初音ミクを指し示す言葉が「初音ミク」「ボーカロイド」なんていう狭い範囲の言葉だけではいけない。もっと広い範囲を指し示す言葉を獲得しなければならない。言うなれば、「ボーカロイド」よりさらに上の階層に位置するタグだ。そうしてその言葉で一般的な音楽の一角に場所を得れば、そこから初音ミクと一般的な音楽は今のような隔絶された関係でなく、シームレスになるだろう。
電子音楽で言えばそれは「テクノ」という言葉だ。電子音楽と言っても千差万別でそう簡単に十把一絡げには言えないし、他に的確な言葉はあるかもしれないが、少なくとも世間一般にはその言葉が電子音楽の概念を与えた。そうなってしまえばもはや人の頭の中に席を得たようなもので、今日のようにJ-POPに何の楽器か全く不明な「テクノ」っぽい音があってもごく自然に受け入れられる。
だから初音ミクは世間一般の末席に座るための言葉を獲得すべし!
おわり!
VOCALOID2 キャラクターボーカルシリーズ01 初音ミク HATSUNE MIKU
- 出版社/メーカー: クリプトン・フューチャー・メディア
- 発売日: 2007/08/31
- メディア: CD-ROM
- 購入: 30人 クリック: 4,650回
- この商品を含むブログ (524件) を見る
【追記】
・僕がかなりいい加減に書いている部分を真面目に書いてくれている記事。
初音ミクと見せかけの魔法
・この記事の本文では面倒なので省きましたが、初音ミクの発売当初はキャラクターの側面が強くて作家性が透けて見えることはなかったと思います。最初から「しゃべる楽器」ではなかったのですが、逆に「歌うキャラクター」でした。つまりまだ歌手>作家の構図を打ち破れなかったのです。
では一体どのようにして打ち破ったのかは下記のエントリあたりで。
初音ミクという神話のおわり
・さんざん理屈をこねて遊んでますが、僕としてはやっぱり歌のチープ革命が初音ミクの一番すごいところかなぁと思っています。
つまり、「初音ミクがあれば歌がうまくなくてもいいし、そもそも歌わなくても自分の歌を発表出来るんだよ。すごくね?」という感じの答えですかね。
ありきたりで大して面白くもない回答ですね。
今後「初音ミクって何がすごいの?」に対するもっともっと面白い回答を誰かがしてくれることを願っています。
というわけでウェブ研イチオシサービス、
即興小説トレーニング
もよろしく!
Twitter連携アプリを利用するなら知っておきたい108のこと
文責:ウェブ研プログラマー
はじめに
ここ数日で話題になっているTwitter連携アプリに「日頃の行いおみくじ」がありますが、「日頃の行いおみくじはスパムだ!」というツイートが拡散されまくって悲しい感じになっています。
ウェブ研でもTwitter連携アプリを作成していますし、あらぬ誤解をうけるアプリケーションが減ればいいな(ついでに宣伝もできればいいな)と思い、ユーザ向けに、OAuthを利用したコラボアプリのものすごくざっくりとした解説記事を書いてみました。
次のような構成になっています。
・OAtuhのものすごくざっくりとした説明
・Twitter連携アプリ固有の話
・ユーザはどうしたらいいか
※随所にウェブ研の宣伝が散りばめられてます
お、OAuth…?
Twitterアカウントでログイン、FacebookアカウントでログインといったことができるアプリケーションではOAuthという規約が使われています。
OAuthでは3人の登場人物がいます。
- 大元のサービス(TwitterやFacebook等)
- 連携アプリケーション(今日のスタンドやチョイQや即興小説トレーニング等)
- ユーザ
ものすごくざっくりと言うと、いわゆるOAuth認証では
「ユーザの同意のもと、ユーザが許可している間、大元のサービスでの一部の『何かをできる権限』を連携アプリケーションに渡す」
という事(認可)が行われています。これを安全に行うための工夫がなされていますがここでは省きます。
渡しているのは「何かをできる権限」であって「大元のサービスのパスワード」ではないので連携アプリケーションはパスワードを知りませんし、何でもできるわけではありません。
しかし、その気になれば「何かをできる権限」の範囲内では何でもできるということになります。
Twitter連携アプリケーションの場合
Twitter連携アプリ作成のためにTwitterが提供してるTwitter APIの場合、
「何かをできる権限」が段階的な3種類しか用意されてません
- 読み込みのみ
- 読み込みと書き込み(DM含まず)
- 読み込みと書き込み(DMを含む)
実際に行えること、連携アプリの認証画面は
1.読み込みのみ
タイムライン、リスト、ユーザのプロフィール、フォローしてる人、フォロワー、ブロックしてる人を見る等
2.読み込みと書き込み(DM含まず)
1に加えてツイートの投稿、削除、リストの作成、削除、リストへのユーザの追加、削除、フォロー、フォロー解除、ブロック、ブロック解除、プロフィール変更等
3.読み込みと書き込み(DMを含む)
2に加えてダイレクトメッセージの閲覧、送信、削除
となります。
このように多くの権限がセットになっているため、Twitter連携アプリケーションは必要以上の権限を委譲してもらわざるをえない状況にあります。
ちなみに、いままでのTwitter API v1.0では「今日の一文字」のように読み込みの一部は認証しなくても使えますが、今年2013年の3月5日からは完全にTwitter API v1.1に移行し、ツイート情報を使うアプリでは全て認証が必要になります。認証なしでも使えるのは「桶屋」のように、ツイート情報を使わないで、ツイートはTwitterを使って行う、といったものになります。
ユーザはどうしたら?
安易に認証せずどれだけの権限を渡しているのかをよく見る
必要以上の権限を要求してくるアプリケーションは疑ったほうが良いですが、即スパム認定は早計です。仕様上、仕方のない場合もあります。パスワードを渡すわけではないので、アカウントが完全に乗っ取られるということはありませんが、前述のとおり、その気になれば渡した権限の範囲内では何でもできてしまうので認証は慎重に。
アプリケーション作成者が信用できるか調べてみる
ウェブ研は信用できるのでこの壺を(ry
認証してしまったが信用出来ないと思ったらすぐに連携を解除する
連携を解除すればその後アプリケーションは何もできません。渡した権限で見れる情報のなかにパスワードが書いてあるのでもない限り、パスワードを変更する必要はありません。
利用しなくなったアプリケーションは連携を解除しておく
Twitterの場合連携しているアプリケーション一覧はここからみることができます
→https://twitter.com/settings/applications
以上です。
Twitterが、渡す権限をより細かい区分に分けてくれれば良いのですが、現状では3段階の内から選ぶしかありません。
信用を得るためにも開発者側も、区分の中でもどの権限を使うのかということを明記した方が良いですね。ウェブ研のアプリケーションにも早急に追加したいと思います。
「日頃の行いおみくじ」がスパム認定されたのには挙動が不安定だったこともあったようですが、
かく言うウェブ研も「今日のスタンド」で短い間でしたが意図せず矢を撃ちまくってしまったことがあったので他人事ではありませんでした。
→ http://togetter.com/li/394932
ネタにしてくれるおおらかな方で良かったのですが、その節は本当にご迷惑をおかけしました。もちろん現在はこのようなことが起こらないようにサーバ移転し、コードも修正してあります!
あ、あとついでにもう一つ宣伝させてもらうと
「より良い作品を創れるようになるのに最も効果的な方法は、一度生み出したものを大事にすることでなく、何度も生み出し、『生み出す』ことにおいて上達することである」
という思想のもとにWebサービスを作りました。
「即興小説トレーニング」、「即興イラストトレーニング」です。
与えられたお題、制限時間で作品を創り、同じ時間帯に挑戦した人は同じお題という、歌会のような形式になっています。ものすごいドキドキ感で、創作クラスタの方はもちろん、普段創作をしない方でも楽しめるサービスになってると思います。
宣伝ばっかりでサーセンwww
ウェブ一般交換論
(以前投稿した記事を再掲)
2009年に書いた試論に少しだけ手を加えたもの。
「一般交換」って知ってますか?
流行るウェブサービスは多くが「一般交換」の構造を持っている。
しかし、しかしだ。一般交換について語る人は少ない。
ということで語る。
限定交換と一般交換
我々が普段利用しているほとんどのウェブサービスはコミュニケーションツールであると言える。しかし、これでは言葉が足りない。「コミュニケーション」とは情報などの「交換」のことであり、その「交換」には二種類ある。
一つは限定交換だ。一対一の交換、直接交換、等価交換などいくらでも表現出来る、ごく一般的な意味での交換だ。
そしてもう一つは一般交換である。一般交換は双方向のやり取りというよりも一方的に与えるだけで、集団の構成要因が非対称に与え合うことで交換として観測される。
例えばAがBに与え、BはCに与え、CはAに与えるとする。AとB、BとCなどの一対一の関係を一つの単位として考えれば交換は行われていないが、集団ABCを一つの単位として考えれば交換がなされたと見ることが出来る。このようにミクロでは贈与で、マクロだと交換となるのが一般交換である。
この一般交換は人間が社会を構成するための機能と言ってもいい。限定交換だと行為が二者間で完結してしまうが、一般交換だと集団を必要とする。言い換えれば一般交換が行われるとそこに社会が生まれるのだ。そして社会を形成するのは人間の本質であり、人は常にその方向へ進む。
集団内で限定交換をさせた場合と一般交換をさせた場合で、どちらがより自分の集団内の人間を信頼するかという実験だと、限定交換は内外の人間に差を与えないが、一般交換だと集団内の人間をより信頼する傾向がある。
身近なことに例えれば、コンビニ店員と同僚で比べてみよう。毎日利用するコンビニがあり、そこに毎日顔を合わせる店員がいる。一方で、一度も話したことのない同僚がいる。
さて、どちらがより信頼出来ると感じるか。大抵の人が後者だろう。前者は二者間の限定交換だけの関係で、後者は会社という集団で情報を非対称に与え合う、一般交換だけの関係である。後者とは一対一の関係を持ったことがないにも関わらず、より信頼出来るのだ。
つまり、一般交換は限定交換より人を惹きつける。(※ちょっとたとえが悪いかもしれない)
ツイッターは出るべくして出た
限定交換の構造を持つ代表的なコミュニケーションツールはチャットである。相手に言葉を与え、相手から言葉を受け取る。「やり取り」をするツールだ。
では一般交換の構造を持つコミュニケーションツールは何か。
一般交換の構造そのものであり、最もわかりやすいのがツイッターである。
個々人は本当に言葉を一方的に発するだけである。一対一の関係ではないので返事を待つものでもなく、言葉の内容も大したものではない。
しかし、フォローすることで他者の一方的な言葉を受け取る。マクロに見れば言葉は交換され、一般交換となる。発言に対し返信をする、限定交換の機能もあるが、なくなってもツイッターの本質は変わらない。利便性のために後から付けたおまけ機能に過ぎない。
ツイッターのシステム自体は非常にシンプルだ。一般交換の構造をそのままプログラム化したようなものなのだ。まるで開発者は社会学か人類学を学び、一般交換をシンプルにモデル化してプログラムに変換し、流行ると知っていてリリースしたかのようだ。
一方チャットは限定交換の構造をそのままプログラム化したものと言える。しかし、こちらは利便性から遍在しているものの、「流行っている」という表現にはそぐわない。
一般交換の構造を持つシステムはまだある。その最たるものがニコニコ動画のコメント機能である。同期ではないため、一対一のやり取りはほぼ不可能で、実際にはコメント機能で出来ることは一方的な発言だけなのだ。それによってコメント機能の構造は純粋な一般交換に近いものとなっている。
ニコニコ生放送のコメントだと同期しているため限定交換が可能となるが、人が集まるほど個の特定が面倒でやはり限定交換は非常に難しいため、非同期のコメントと同じように機能し、そこで行われているのは一般交換だと言える。
視聴者の人数が少なければ例外的に限定交換が容易となるが、それは「馴れ合い」と呼ばれ、やはり例外的な扱いを受ける。また後述の理由もあり、そういった一般交換用のシステムの上で行われる限定交換に嫌悪感を抱く人もいる。
したがってニコニコ動画は基本的に一般交換のシステムなのだ。だからドワンゴが「ニコニコする」と表現している、何かにコメントを付けるという行為の本質は、一般交換を行うということかもしれない。
しかし、ドワンゴが最近推し進めているリアルとの繋がりを深める事業は、しっかり考えてやらないと限定交換寄りのシステムとなってしまう。そのせいで現時点でも「なんか違うんじゃないか?」と思っている人もいるだろうし、嫌悪する人もいるだろう。
まぁ、しっかり考えながら試行錯誤すれば、ドワンゴなら上手くやるんじゃね? というのが私の考えではあるけれど。
一般交換は流行る。流行るは一般交換
2ちゃんねるなどの掲示板のシステムは、ほぼ一般交換と言える。スレッドは特定の個人とのやり取りの場ではない。スレッドは集団を規定するための区切りである。書き込みは基本的にその集団自体に向けられたもので、個人に対するものではない。また、個人に対して発しても集団の構成要員にも平等に届いてしまうので限定交換の要素は薄れる。
チャット、掲示板、ツイッター、これらは文字を時系列順に並べるだけのシステムだ。構成している要素はどれも同じだ。しかし、構造に限定交換と一般交換という大きな差がある。そして限定交換のチャットは流行らず、一般交換の掲示板とツイッターは流行った。これは偶然ではないはずだ。一般交換は流行るのだ。
限定交換はやはり二者の間で完結してしまうのが流行らない理由だろう。そして集団を形成しない。それに対し一般交換は必ず集団を形成する。したがって一般交換は社会を形成するアーキテクチャと考えられる。ならば人が常に社会を作ろうとする限り、そのためのアーキテクチャを獲得しようとするのは当然の流れだろう。そして「流行」という現象自体もまた一般交換であり、社会を作るアーキテクチャなのである。
CGMも一般交換
ニコニコ動画のようなユーザーがコンテンツをアップロードして作られるメディア、CGM(コンシューマージェネレイテッドメディア)もまた、一般交換と言える。アップロード者が出来ることはアップロード、つまり与えることだけであり限定交換は出来ない。ニコニコ動画の場合、そこにコメント機能があり、さらなる一般交換のレイヤーが加えられている。集団を意識させるアーキテクチャが二重に働いているのだから、非同期にも関わらずあの異常な一体感、連帯感、共有感が生まれるのも当然だろう。
嫌儲の正体
CGMで良質なコンテンツがあると、享受したユーザーは何らかの報酬を与えたくなる。それは人間の持つ互酬性に由来する感情だ。贈り物をもらったらお返しをしたくなる、あの感じだと思っていい。
しかし運営サイドが「それならばアップロード者にお金が行くようにしようか」という話をすると、途端に反感を買う。「嫌儲」というやつである。
嫌儲はネットの性質だと考える人が多い。だがそうではない。嫌儲はCGMの性質なのだ。
そもそも嫌儲は何を嫌っているのか。ユーザーが金儲けすることでもなく、他人の幸福でもない。コンテンツに相応の対価が支払われることだ。
それは何を意味するのか。等価交換であり、つまりは限定交換なのである。対価によって一般交換であるものが限定交換に変わってしまうのだ。そのせいで集団の構成要員は嫌悪感を感じてしまう。
人は社会性を持つ生き物で、一度作られた集団には個人の意思とは関係なく、その集団を維持しようとする力(※学術的名称は忘れた)が働く。
したがってその集団を形成するアーキテクチャである一般交換にも維持の力は働く。そして一般交換のシステムであるCGMにおいて、それが一般交換でなくなろうとする力が働いた場合、構成要員は一般交換を維持しようと反発する。それが嫌儲の正体だ。決して嫉妬なんかではない。
(まぁ、中には本気で嫉妬している人も少なからずいるだろうけど、それは個人の人格の問題なのでどうしようもない)
ネットにはCGMが多く、一般交換が盛んに行われている。また、人が意見を交わす場所は大体CGMである。それによって嫌儲がネット自体の性質だと誤解する人が多いのだ。
CGMでなく、かつ一般交換にも当てはまらなければ嫌儲の性質は現れない。初めから商品の販売を目的とした場所なら、コンテンツに対価を払うことに反発はないのだ。だが今現在、ネットで商業デジタルコンテンツがあまり売れていない。その点からネット全体に嫌儲が蔓延していると考えてしまう人もいるだろうが、私は違うと言いたい。
ニコニ広告はすごい
良質なコンテンツに出会ったとき、人はどうしても互酬性から来る感情を抱いてしまう。何か与えたくなってしまうのだ。それが「自分もアップロードしたい」というクリエイティブな方向へ進めばCGMにおける一般交換の好循環への一因となり得る。しかし、互酬性がクリエイティブに作用する人間の割合はそれほど多くない。大抵の人間は互酬性を持て余している。
その余った互酬性を収益に変換する装置がニコニ広告である。ニコニ広告とは、ユーザーがお金を払って気に入った動画を宣伝できる機能である。そのお金は全額運営に渡る。一見ふざけたシステムにも思えるが、実は優れた構造を持っている。
アップロード者にお金が行くシステムだと限定交換となってしまうが、全額運営に行くために完全な一般交換になっているのだ。ニコニコ動画が作る社会を前述した集団ABCに当てはめればわかりやすい。
まずA(運営)がB(アップロード者)に発表の場を与える。B(アップロード者)はC(ユーザー)にコンテンツを与える。C(ユーザー)はA(運営)にお金を与える。見事である。ニコニ広告のビジネスモデルは実に見事である。CGM、コメント機能の上に乗っかる第三の一般交換レイヤーだ。
ネットでお金を使う人が少ない現状でそれなりに成功してるのだから、今後ネットでの商業が発展し、ネットでお金を使う人が増えればニコニ広告はかなりの収益を得られるに違いない。それほど一般交換というのは誰にでも作用する、強い力なのだ。コミュニケーションを軸としたウェブビジネスを展開する場合、成功するか否かは一般交換というアーキテクチャの有無に懸かっていると言っても過言ではない。
(この部分も2009年に書いたのだが、ニコニ広告は2012年になってもやはり好調のようである)
企業がCGMで儲けるには
企業がCGMで儲けるには、やはり広告だけでは厳しいものがある。何とかしてユーザーから直接お金を頂戴しなければならない。
しかし、投げ銭のようにコンテンツへの対価を払うシステムを作るとアップロードという行為自体が一般交換ではなく限定交換的な意味合いを帯びてしまい、嫌儲の問題が出てくる。
有料会員制もよくある手だろう。たしかにプレミアム会員の仕組みはCGMで儲けるための一つの答えである。しかし、それはあくまで一部の超人気サイトに限る話であり、多くのCGMに当てはまるような、普遍的な答えではない。それはニコニ広告のようなシステムも同じで、人気を利用した力技は常套手段であるが普遍性に乏しいのだ。
ではその答えはどこにあるのか。やはり一般交換しかないのである。一般交換システムの中で儲けるには、一般交換システムの儲け方しかないのだ。つまりはお金の支払いを一般交換的にするのだ。
わかりやすく言うと、ユーザーに「対価を支払う」と感じさせない方法でお金を使わせるのだ。不特定多数の間でお金を「与え合う」と感じさせるシステムだ。
もちろん結果としては投げ銭させて手数料を取るのと何ら変わらない。しかし、ユーザーの心理としては全く別物だろう。おそらく「投票」や「投資」に近い感覚でお金を使うことになる。
そうやって一般交換的にお金を使わせる方法はいろいろあるだろう。自分自身で手を出してみたい領域でもあるのであえて具体的には言わないが、とにかく各企業の創意工夫によって様々な一般交換的な金銭巻上げシステムを作り出せるはずである。だから企業には諦めの言葉として「ネットは儲からない」だなんて言わないでもらいたい。
それにさ、同じことグーグルの前でも言えんの?
私が一番言いたいこと
それにしてもネットと交換論を絡めて論じる人がいない。ツイッターと一般交換を絡める人も見つけられずにいる。私としてはもっとモースやレヴィ=ストロースのコミュニケーション論とネットを絡めて論じてくれる人が増えてほしい。私には大した学術的知識もなく、運用できるのは新書で読んだ程度の知識だけだからである。要は本読み漁るのめんどいから教えて! という訳である。
と、述べてみたものの、一番言いたいことはそこじゃない。
私が言いたいのは以下である。
現状、わりとネットは儲からない。
それは認めなければならない。ウェブで人がダイナミックに活動しているのに経済活動はそこまで活発ではないのだ。
しかし間違っている。それは絶対に間違っている。
だから私は「儲からないネット」へのレジスタンスでありたいのだ。
ウェブで生きることが、リアルで生きることに繋がるようにしたいのだ。
こんな「儲からないネット」なんか、爆破してやりたいのだ!