面白さ=文脈変化×納得感

面白さ とはなんだろうか。そんなことを昔から考えている。とりあえず分析してブログに書いたこともある。

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しかしこれはまだ考え抜かれていない。他人の作ったものの分析はできても、自分が何かを作る際にはちょっと使いづらい。だから何かを作る際に意識し続けられるような、シンプルで具体的な形に落とし込まなければならない。僕はそういった作業を 取っ手を付ける作業 と呼んでいる。

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で、 面白さ という馬鹿でかくて掴みづらい代物を、なんとか手で持って扱えるようにする取っ手を考えた。その結果が、 面白さ=文脈変化×納得感 という考えであり、せっかくだし簡単にまとめることにした。

僕はこの考えを試験に出したいくらいの強さで主張したいので、今回はとにかくそれだけでもいいから覚えてもらいたい。 面白さ、文脈変化と納得感 とすれば七五調だし覚えやすいかもしれない。

面白さを構成する要素

面白さ=文脈変化×納得感 という文字列だけで理解するのは難しい。あくまでこれは頭にしまうためのインデックスであり、正確な把握には各要素の説明が必要だろう。

文脈変化

文脈変化 だけだとざっくりしすぎているので説明したい。ここでいう 文脈 というのは、受け手の頭の中に形成された意味や予想 である。

たとえば「窓の外を見たら、地面が濡れていた」という文章があるとする。この情報を受け取った者は、「文章の主は建物の中にいて、気付かないうちに通り雨でも降ったのかな」というような、文章の意味と文章に含まれていない推測を頭の中に構築する。それが文脈であり、それをいかに変えていくか、どれだけ大きく変えるかが肝となる。

前提となる文脈

文脈変化 と言うからには、変化する前の文脈がはっきりしていないと、変化したのかどうかがよくわからなくなってしまう。

たとえば「右のやつを見たら、この前のやつが左だった」なんていう文章が与えられても、受け手の頭の中にはほとんど文脈が形成されない。こうなると変化させる文脈がないので、次に繋げた文章で面白くするのは難しい。強いて言えば「意味不明」という文脈が作られるので、それを活かすしかない。

前提となる文脈が明確かつ情報量の多いものならば、文脈が変化した際、より変化を強く感じられるので良い。だから一般常識として自明であるものや、偏見を抱きがちなものや、より推測を促すものであるほど、前提となる文脈としては良い。

新しい文脈

前提となる文脈を変化させたら、受け手の頭の中には新しい文脈が形成される。その文脈は前提となる文脈と違えば違うほど面白い。

前述の「窓の外を見たら、地面が濡れていた」で考えてみる。この場合、受け手の頭の中には「文章の主は建物の中にいて、気付かないうちに通り雨が降ったのかな」という文脈が形成されている。したがって次に続く一文を考えるとしたら、新しい情報でこの文脈と全く違う文脈が形成されるように試みると面白くしやすい。

窓の外を見たら、地面が濡れていた。

で考えてみる。この場合、受け手の頭の中には「文章の主は建物の中にいて、気付かないうちに通り雨が降ったのかな」という文脈が形成されている。したがって次に続く一文を考えるとしたら、新しい情報でこの文脈と全く違う文脈が形成されるように試みると面白くしやすい。

したがって、

窓の外を見たら、地面が濡れていた。私は建物の中にいたので、気付かないうちに通り雨が降ったようだ。

としたらあまり面白くない。面白さの要素は文脈変化だけではないので、面白さ皆無というわけではないが、微妙である。

窓の外を見たら、地面が濡れていた。ダムが爆破されたせいでこの街は濁流に飲まれつつある。

としたら、ちょっとした日常の文脈が、一気に危機感で上書きされ、先程の微妙な例よりは面白くなる。

窓の外を見たら、地面が濡れていた。この火星に雨が降ったという事実は通信ラグを超えたのち、地球で大ニュースになるだろう。

としたら、今度はセンス・オブ・ワンダーで文脈が上書きされる。これも最初の例よりは面白いはずだ。

こうして作られた新しい文脈が受け手の中に定着すると、それは新しい前提となる。つまり、その文脈からまた大きく変化させて……というのを繰り返していくことで面白さが維持される。

納得感

面白さの要素は文脈変化だけではない。 文脈変化×納得感 なので、 納得感 も極めて重要である。いくら文脈が変化しても、そこに納得感がなければ面白くならない。

整合性

論理的であるかどうかを問わず、とにかく受け手に整合性を感じさせるかが、納得感を構成する主な要素だ。

たとえば「窓の外を見たら、地面が濡れていた」という文章で再度考えてみる。

窓の外を見たら、地面が濡れていた。きっと今日の朝食は美味しい。

これだと文脈が変わっているものの、あまり面白くない。「地面が濡れていた」と「今日の朝食は美味しい」の整合性が弱く、納得感がないからだ。

整合性の弱さによる納得感の欠如が問題なのだから、納得感を足してみたらどうなるか。ここに文章を足してみて、強引に納得感を加えてみる。

窓の外を見たら、地面が濡れていた。きっと今日の朝食は美味しい。雨の日はあの人が朝食を作ってくれるから、僕は目が覚めるといつも真っ先にカーテンを開ける。そして今日みたいな雨の日には、地面が濡れているのを見ただけで幸せな気持ちになってしまう。

こうすると文脈の変化に一応の納得感が加わり、その分だけ面白みが出てきているように感じる。

最初に挙げた面白くない例を再度見てみる。

窓の外を見たら、地面が濡れていた。私は建物の中にいたので、気付かないうちに通り雨が降ったようだ。

この文章はあまり面白いものではない。しかし面白さというのは度合いであり、なおかつ面白くなくても「面白さ0」というのは存在しないと考えるべきだ。ではこの文章に残されている、砂粒のように小さな面白さは何か。ここに文脈変化はほとんどないが、ある程度の納得感はある。だからこの文章のほんの少しの面白さは、その納得感に由来するものであるように思える。

リアリティ

何かを作る上で、リアリティ が重要になることは多々ある。リアリティも厳密には整合性の一部であるが、分けてしまったほうが考えやすい。

よく「コンテンツにはリアリティが必要だ」と言われるが、物事をリアルに表現してリアルっぽさ(リアリティ)を持たせることがなぜ必要なのか、どの程度必要なのかという問題も、納得感で考えるとわかりやすい。

現実に起これば納得するしかないわけで、その現実に近づけることで納得感も強くなる。だからリアルな表現が必要であり、リアルな表現でもたらされた、肯定的に表現される「リアリティ」というのは、納得感のことである。だから納得感を強化するために、リアリティは出来る限り持たせたほうがいい。

とはいえ、リアルな表現が多いほど面白いのかというと、そういうわけでもない。リアルな表現をダラダラと連ねてしまって文脈変化が緩慢になってしまったら、受け手に変化を変化と感じてもらえなくなってしまう。納得感が強くても、文脈変化が弱すぎたらあまり面白くはない。文脈変化を損なわない範囲に限定しつつ最大化させるのが良い。

文脈変化と納得感のバランス

文脈変化と納得感の両方が大きければ、大きな面白さとなる。しかし、常に両立させるのは難しいし、受け手によっても文脈変化と納得感に対する感じ方は異なる。

コンテンツにおける偏り

受け手が「面白い」と感じるコンテンツでも、大抵は文脈変化か納得感のどちからか一方に偏っている。いわゆる「王道」だとか「ベタ」と言われるコンテンツだと、納得感偏重型だ。一方で前衛的なコンテンツだと、文脈変化偏重型だ。

受け手の属性における偏り

受け手の属性によってもどちらをより面白く感じるかが変わってくる。子供だとかその分野の「ライト層」と表現されるような人達や、ある種のこだわりが強い人達は、納得感を重視する傾向がある。予定調和の展開だとしても、自身が強く納得出来ることであれば満足を得られる。一方で玄人寄りになってくると、とにかく大きな文脈変化を求める傾向がある。もちろん、個人や分野による差のほうが大きいので一概には言えないが、属性によってある程度の傾向はありそうだ。

受け手との関連性

厳密に言えば、面白さ=文脈変化×納得感 は正確ではない。実際には、 受け手との関連性 が高い情報だとさらに面白く感じられる。だから本当は 面白さ=文脈変化×納得感×受け手との関連性 と言ったほうが正確だろう。

たとえば文脈変化も納得感も弱いネタでも、内輪ネタならそこそこ面白くなる。それは 受け手との関連性 によって面白さが何倍にも膨れ上がっているからである。

ただ、面白さ=文脈変化×納得感 手を動かす際に意識することだが、 受け手との関連性 は手を動かす前に意識することだ。どういうターゲットにどういう情報を提示するかということなので、使うタイミングが少しずれる。これも意識すべき重要なことであるが、自分が手を動かす際のツールとしての 面白さ=文脈変化×納得感 からは省いた。

しかし他人が作ったものや、自分が作り終わったものについて考える時ならば、 面白さ=文脈変化×納得感×受け手との関連性 のほうが正確な分析が出来ていいかもしれない。

汎用性

面白さ=文脈変化×納得感 という考え方は、そこそこ汎用性が高いように思える。ここまでの例はちょっとした文章だったが、きっとそれ以外でも十分に使える。

ストーリー

ストーリー においては、そもそも文脈が変わっていく様がストーリー性とも言える。受け手に納得感を与えつつ話を変えてくのがストーリーだ。序盤や中盤で強固に形成された文脈を、ラストで一気に変えて見せるといわゆる どんでん返し というやつになる。

物語の設定

よく 異質なものを同士を掛け合わせた設定が面白い なんて言われるが、それは 文脈変化を引き起こす設定が面白い と考えることが出来る。

文脈変化を引き起こす設定というのは端的に言えば、「魔女なのに宅急便やってる」とか「もののけなのに姫」とか「お城なのに天空に浮いてる」とかそういうものだ。だから主人公の設定を練る際に、安易に「女子高生だから好きな音楽は流行りのJ-POP」なんていう設定の付け方をしてはならない。「清楚な女子高生なのにデスメタルしか聴かない」とかそういうほうが面白い。

ただ、異質な者同士を掛け合わせても、それをうまく成立させないと意味不明で終わってしまう。ではそうならないようにする要素は何かというと、納得感だろう。「清楚な女子高生なのにデスメタルしか聴かない」という設定でも、そこに何の納得感もなかったら、大した面白に繋がっていかない。「敬虔なクリスチャンだったが、母親が命の危機に晒された時に助けてくれたのは神でも仏でもなく、ライブ帰りのデスメタラー」とかそういう納得感が加えられると、面白さを人物造形にまで有機的に絡めやすくなる。

こういう感じでキャラクターの取りそうにない行動や、言いそうにない言動を、納得感のある経緯で積み重ねて設定を練っていくと、より魅力的になると思われる。また、そうやって納得感を持たせる経緯自体がストーリーとなっていく。

エロス

面白さエロさ に置き換えて考える必要があり、なおかつ変化の後に作られる文脈が「エロい」でなければいけないという制約があるが、基本的な考え方は同じだろう。性的なもの離れた文脈から開始し、十分な納得感を持って「エロい」と感じさせることが出来るほど エロさ が大きくなる。

大喜利

面白さ=文脈変化×納得感 は、大喜利のようなシンプルに 面白さ を狙うものでは非常に使いやすい。

画像大喜利サイトなんかを見るとわかりやすい。大喜利与えられた文脈を、いかに納得感のある範囲で変えるか を競うものとも言える。

bokete.jp

Webサービス

面白さ=文脈変化×納得感 は、Webサービスを作る際にも使える。実際、アプリ☆メーカー というサービスを作る際には多いに役立った。アプリ☆メーカーは使用者のツイート文を形態素解析し、それを利用した文章を自動生成するWebアプリを作れるサービスである。

たとえばこういうものを簡単に作れる。

appli-maker.jp

このサービスが成り立つと考え、実際に制作したのは、面白いものを生み出す機能が備わっていると確信していたからだ。

予め用意されている文章に、全く関係のない単語が埋め込まれるので、予期せぬ単語が文章に使われることになる。これは文脈変化を生み出す。

また、使用者のツイートを形態素解析し、そこから持ってきた単語を主に使う。ということは、使用者の語彙に適合した文章が作られ、「その人っぽい」ニュアンスの文章になる。それはつまり納得感が生まれるということであり、その人に関連のあるネタになるということでもある。

このように文脈変化と納得感を生み出せるので、面白いコンテンツが生まれるサービスになると確信していた。もちろん、ランダム性が強いために、文脈変化が不十分だったり、納得感が弱かったりしてつまらない結果になることも多い。使用者の語彙や、ベースの文章を考えた人の力量にも左右される。しかし運が良ければ文脈変化と納得感の両方が大きくなり、とんでもないネタが生まれたりする。たとえるなら、打率の低いホームランバッターだ。

こんな風に何らかのコンテンツを自動生成するタイプのWebサービスなら、面白さ=文脈変化×納得感 というのは役に立つはずだ。ぜひ「この機能は文脈変化を生み出すか?」「この機能は納得感を生み出すか?」と考えてみてほしい。

人生

人生においても、変化や納得感が大きいと面白く感じられるのではないだろうか。変化のない生活はつまらないし、納得できないまま翻弄される人生もつらい。納得感がありつつ変化のある人生こそ、面白そうだ。

面白くならないパターン

面白さ=文脈変化×納得感 であるならば、文脈変化や納得感が小さくなってしまう場合には面白くなりにくい。それを招くパターンとしては、以下が挙げられる。

  • 前提となる文脈がちゃんと形成されていない
  • 変化後の文脈がちゃんと形成されていない
  • 文脈の変化が小さい
  • 納得感が弱い

この中で顕著なものが1つでもあると、たとえ自分では面白いと思っていても、他人にその面白さが伝わることは稀だ。「もしかしてこれ面白くないかも」とか「これをどうやったら面白く出来るか」とか思った際には、上記の中で顕著なものを解消するといいだろう。

面白さの本質

面白さ=文脈変化×納得感 は、あくまで何かを作るために扱いやすい形に整えた考え方であり、面白さの本質 かというと、違うように思える。

面白さの本質は 学習の快楽 だと考えている。人間は何らかのパターンを記憶し、それをもとにして 類比・対比・因果 を思考する生物である。学習とは新しいパターンを知ることであり、新しいパターンとは既知のパターンの例外にあたるものだ。

文脈変化とはつまり、既知のパターンの 類比・対比・因果 を考えても導けなかった例外に出会うことである。そして納得感とは、例外と既知のパターンとの整合性を理解することである。

さらに言えば、記憶したパターンというのは脳に形成された神経回路であり、新しいパターンというのは新しい回路の繋がりを獲得することだ。それはつまり脳の発達である。だから 面白さ の根源的な姿は脳の発達であり、人が面白いものを渇望するのは、人類が脳を発達させることを生存戦略とした結果なのかもしれない。

おわりに

簡単にまとめようと思っていたのだが、全然簡単にはまとまらなかった。しかもまとめようと思ってから数年も経ってる。大いに反省すべき点である。

でも大事なのは 面白さ=文脈変化×納得感 だけだ。細かいところはどうでもいいから、今回はそれだけでも覚えてほしい。

面白さ=文脈変化×納得感 という考え方が使えるかどうかは人それぞれだろうが、僕自身の思考が整理されたように、誰かの思考を整理する一助となってくれると嬉しい。

今後も 面白さ について考え続け、さらに洗練された考え方を見つけたいと思っている。