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リーダーシップとは心理的コストを肩代わりすること

リーダーシップってなんやねん

「リーダーシップ」という言葉を聞いたことがあるはずだ。そして言葉の意味だってなんとなく知っているだろう。

しかし「詳しい意味を正確に教えて」と言われたら困ってしまう。そこまで考えてみると、いかにぼんやりとした概念であるかがわかる。

リーダーシップはありまぁす!

じゃあリーダーシップなど存在しないのだろうか。そんなはずはない。今まで生きてきてリーダーシップらしきものを感じた瞬間は何度もあった。

小規模な集団でリーダーを決める際に、大多数が「まぁこの人だよね」と思い、すんなり決まったことだって何度もあっただろう。その人がリーダーシップを持っていると、確かに感じていたのだ。

取っ手付けちゃうぞ

リーダーシップなるものが存在するならば、そりゃあ是非とも使いこなして自在に発揮してみたい。まるで傘を差すかのように、「お、この状況なら出しちゃうか、リーダーシップ」という気軽さで発揮したい。

しかしリーダーシップという概念はあまりに漠然としており、そんな気軽さとは相性が悪すぎる。気軽さを実現するには、イメージする行動の具体性が高くないといけない。そこで必要になってくるのが、前も記事にした「取っ手を付ける作業」だ。

web-ken.hatenablog.com

漠然とした概念に取っ手を付け、自分の手で扱える道具に変えるのだ。

いでよ脳内教室

リーダーシップという概念の抽象度を計るために、脳内教室を用意しよう。そこに脳内中学生か脳内高校生を30人くらい放り込む。その教室で生徒へ指示を与える脳内教師のセリフに、抽象度を確かめたい物事をはめ込む。

「はい、リーダーシップ発揮して!」

さて、生徒たちは迷いなく動けるだろうか。流石に無理だろう。教室には聡明な生徒も何人かいるだろうが、これでは彼らですら動けない。

理想は聡明でない生徒ですら迷いなく行動できるくらい、「リーダーシップを発揮して」を具体的にできることだ。ただし、これはかなり難しいだろう。とりあえずは、聡明な生徒が動くことができそうなくらいのレベルで考えたい。

リーダーシップの生え際

リーダーシップという謎の存在は、いったいどんな瞬間に感じられるのだろうか。それを自分の経験を振り返り、探ってみた。

いろいろ探ってみた結果、リーダーシップは自分が感じた心理的コストを他者が肩代わりしてくれた瞬間に少しだけ感じられるという結論に至った。そしてその少しだけのリーダーシップ——便宜上「マイクロリーダーシップ」と呼ぼう——が蓄積されほど、リーダーシップが発揮されていると感じる。だからリーダーシップを発揮するには、誰かが感じているであろう心理的コストを何回か肩代わりしてあげればいい。

心理的コストってなんやねん

便宜上「心理的コスト」なんていう言葉をなんとなく使っているだけで、特に専門的な用語として使っているわけではない。心理的なハードルだとか負担だとか、そういう感じに捉えてくれればOKだ。

ただし、心理的コストなら何でもいいというわけではない。個人および集団が必要性を感じた行動に対する心理的コストだ。必要性が感じられていないと意味がない。「場が要求する心理的コスト」として考えるといいかもしれない。

他のコストじゃ駄目

場が要求する心理的コストを肩代わりすることでマイクロリーダーシップを生み出せるのだが、場の人間が心理的コストを肩代わりしてもらったと感じないといけない。金銭や時間、労力などのコストを肩代わりしてもらったと感じられてしまったら、むしろ逆効果だ。

だからマイクロリーダーシップを生み出す取る行動というのは、心理的コスト以外のコストが問題にならない、もしくは認識されていないものでないといけない。その行動のコスト=心理的コストと感じられるようなものが良い。決して雑用係になってはならない。

脳内教室再び

リーダーシップにとりあえずの取っ手が付いたので、脳内教室で脳内教師に言わせてみる。

「はい、場が要求する心理的コストを肩代わりして!」

このままではちょっと持ちにくい取っ手だ。癖の強い取っ手というべきか上級者向けの取っ手というべきかわからないが、かなり聡明な生徒じゃないとその指示で具体的な行動に移すのは難しいのは確かだ。

ただ、「はい、リーダーシップを発揮して!」よりはましだ。場に何らかの問題が生じており、その解決のために心理的コストを支払う必要性が明確なら、そこそこ取るべき行動が見えてくる。

指示を理解した聡明な生徒なら教室に生じた問題を察し、きっとこんなことを言うだろう。

「もう少し具体的にお願いします」

シチュエーションごとのマイクロリーダーシップ

理想はもっと持ちやすい取っ手を見つけることだが、なかなか難しい。だからシチュエーションごとの取っ手の使い方を予め考えておく。あくまでシチュエーションごとになってしまうが、そうすることでリーダーシップを簡単に発揮する方法がわかるはずだ。

ランチ

何人かでランチを食べに行くことが決まった。近所の飲食店は洋食と中華の2件。どちらでも全く問題はないが、どちらに行くかはまだ決まっていない。

このとき、どちらかの店に行こうと提案する行為に必要性が生じている。それは大した労力ではないはずなのに、その実行には心理的コストが生じてしまっていることが多い。

そこで場が要求する心理的コストを肩代わりして、理由とともに「◯◯に行こう」と提案してみる。そのまま決まるかは問題ではない。理由を述べたことで、連鎖的に他の人も何か違う理由を述べたり、より決定的な要素を発見するかもしれない。しかしそれらの行為にマイクロリーダーシップは生じない。心理的コストを肩代わりした瞬間においてのみ、マイクロリーダーシップが生じるのだ。

おそらく提案がどういう形でも、マイクロリーダーシップが生じると思われる。「◯◯に行きたい」と希望を言うだけでもいいだろう。場が求めているのは方向性を示すことだからだ。

逆にマイクロリーダーシップの発生から最も遠いのが、発言せず決まるまで待つことだ。これは心理的コストの全面的おっ被せ行為である。

よくやっていることだが、「ランチなに食べる?」などという質問を投げかけるのも場合によってはマイクロリーダーシップから遠そうだ。対話を促す行為ではあるので、普通の場面なら問題ないだろうし、むしろマイクロリーダーシップを生み出せる場合もあるだろう。しかし対話を促す行為がさほど求められていない場合、たとえば既に対話が始まっているところに後から自分が参加した場合になどには、既にいた人達に心理的コストをおっ被せる行為である。対話を促して決断を円滑に進めて集団の利益を得ようとしているのに、人に「マイクロリーダーシップがない」と感じさせて個人の不利益になりかねない。こういうことは集団の決断を急ぐためにためについやりがちだ。場合によっては集団の利益を思って無駄に自己犠牲を払ってしまう「カミカゼ行為」だと思っていいかもしれない。

聴衆の一員

講義でも何らかの発表でもいい、とにかく多数の聴衆がいる環境で、聴衆が質問する機会があったとする。説明不足な点、もしくは間違いが明らかに存在し、多くの聴衆が疑問を抱いている。

このとき、聴衆の誰かが質問する必要性が場に生じており、その実行には聴衆の人数に比例した大きさの心理的コストも生じている。ここで一番最初に質問すると、マイクロリーダーシップを生じさせることができるだろう。

聴衆の一員である際にはこのパターンが一番マイクロリーダーシップを発揮する機会としては多そうだが、次に多そうなのは、空調の調節かもしれない。場の人間が暑いor寒いと感じているのを察した時に、空調の調整を頼むとマイクロリーダーシップを生じさせることができるだろう。

自己紹介

初対面の際にリーダーシップをバリバリ発揮しなきゃいけないとは思わないが、まるでリーダーシップのない行動はよくないだろう。

気楽に接することができるように、ある程度のリーダーシップなら楽に発揮できるようになっておきたい。

まず目が合った際に、場に挨拶をする必要性が生じる。先に挨拶をするのと後に挨拶をするのでは、同じ労力でも心理的コストが大きく違う。だから先に挨拶をすることで相手の感じた心理的コストを肩代わりしたことになり、マイクロリーダーシップを生じさせることができるだろう。

問題は次に何を言うかである。先にしっかり自己紹介するのが礼儀としては正しいように思える。しかしこの場、つまり相手の心理的コストを肩代わりすることにフォーカスすると、そうするべきではないように思える。

相手が誰かを知る必要性と、自分が誰かを伝える必要性の二つを比べてみると、おそらく後者のほうが重要である場合が多い。したがって自己紹介は極めて簡潔にしつつ、相手のことをしっかりと聞くことでよりマイクロリーダーシップを生じさせることができるはずだ。相手のことを知っているならば、自分が相手をどれくらい知っているかを提示することも重要だ。

さらに連絡先の交換も必要とされる場面も多いだろう。ビジネスの場であればタイミングが明確であるが、もっとカジュアルな場では曖昧だ。「連絡先を交換する流れ」は、誰かが作らないと生まれないことが多い。そこで先んじて連絡先交換を提案するとマイクロリーダーシップをより生じさせられるだろう。場の人数が多いほどタイミングが曖昧になりがちなので、より大きなマイクロリーダーシップになるかもしれない。

シチュエーション多すぎ

「場が要求する心理的コストを肩代わりする」という取っ手を使いこなしてリーダーシップを簡単に発揮するため、多種多様なシチュエーションを想定してみよう思ったが、いちいち考えていられない。

僕はその場その場で考えてみることにしたので、みなさんも頑張ってください。リーダーシップを発揮する簡単な方法……それはみなさんの心の中にあるのです!

良きリーダーとは

リーダーシップとリーダーは少し違う。リーダーシップは一種の性質であるが、リーダーは役割だ。

今回考えたリーダーシップの延長で考えると、リーダーとは決断の心理的コストを肩代わりする役割である。決断という行為においてリーダーシップを発揮することを担う役割とも言える。

決断というのは支払う身体的コスト自体はゼロに等しいが、支払わなければいけない心理的コストが最も大きい行為の一つだ。そして分業、つまり役割分担というのは、個々が行う作業の種類を少なくして全体の生産性を上げることである。だから何らかの作業で身体的コストを支払う役割と、決断で心理的コストを支払う役割に分かれるのはごく自然なことである。

そういう風に分化したものと捉えると、良きリーダーというのは、作業をする人間に心理的コストの大きい決断をなるべくさせない人間であるはずだ。もちろん個々が日々こなしていく決断を大きく制限するものではない。個々が「こうするのが正しい」とすんなり決断できるならば、そこに心理的コストはあまり生じていないからだ。世の中には「こうするのが正しい」なんていう明確なものがない中でも選択しなければならないことが多く、そういった場面ほど決断の心理的コストが大きい。「こうするのが正しい」とわかっていても決断に大きな心理的コストが必要になってしまうことだってある。それらの大きな心理的コストを優先的に肩代わりしてこそ良きリーダーだ。

良きリーダーの反対であれば、当然ながら悪しきリーダーだ。個々につらい決断を強いて問題を生じさせ、自分の労力を費やして問題を解決してしまう。戯画化してみると、いつも忙しそうにしていて部下に「自分で考えろ」と言う上司。なんだか日本企業にたくさんいそうである。たとえ本人の生産性が高くても、部下の生産性を皆無にして組織としての生産性を上げていないので、リーダーとしての能力は低いと言わざるを得ない。ただ役職がリーダーなだけで、リーダーとしての役割を担えていない。

たとえ本人の生産性が低くても、「こうやってみよう」という明確な方針を与え、あとは問題が生じても本人やその周辺に任せっきりの上司のほうが、部下の数だけ組織の生産性を引き上げているので良きリーダーと言える。

僕も一応Diver Down社のリーダーではあるので、リーダーとしての役割をよく考え、ついでにリーダーシップもひょいひょい発揮していきたい。