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ねぇ、飛び級しない?

 僕は小学生のころ、問題児として扱われた時期があった。与えられた席は特等席。一番前の席よりもさらに前。教卓の真横だ。ふざけんなよ。

 そうなった理由は、僕が大人しく授業を受けられないからだ。まぁ……言い分は理解できる。

 僕の他にもう一人、特等席を与えられた子がいた。やはり彼も僕と同様に、大人しく授業を受けられない。まったくしょうがない奴だ。

 そりゃ僕だってしょうがない奴には違いないのだけど、今思えばこの特等席が、日本の教育システムの問題を端的に示しているように思える。

 

 僕じゃないほうの問題児は、先生の話をまともに聞けず、すぐキレて、テストでもほとんど点を取れなかった。それを何とかケアするために、特等席を与えられていた。

 じゃあ僕も同じかというと、そうではなかった。先生の話はすぐに理解したし、指されても即答出来たし、練習問題もすぐに解き終わったし、テストは基本的に100点だった。

 ではなぜ問題児とされたのか。それは退屈だったからだ。先生の話をすぐに理解し、退屈だった。何を問われても答えられるくらい理解していたから退屈だった。練習問題もすぐに解き終わったので退屈だった。

 所詮は小学生だ。退屈ならおしゃべりもする。そして怒られる。また退屈になれば別のことをやったりする。そして怒られる。怒られずにできることといえば、教科書を読むことくらいだ。でもそのせいで、次の授業は先生の話を全く聞かなくてもよくなり、もっと退屈になってしまった。そうなると、もっといろんなことをして、もっと怒られた。そうして僕は「問題児」となった。

 

 結局僕は、日本の教育システムからあぶれてしまったのだ。出来るか出来ないかの問題じゃない。「平均的な子供」でなかったことがいけなかったのだ。

 塾になんか行っていなかった。予習も復習もしない。宿題以外の勉強もしなかった。僕が特別なことをした訳じゃない。「話を聞け」と言われたから聞いた。「問題を解け」と言われたから解いた。「テストを受けろ」と言われたから受けた。それを全て上手くこなして退屈になった結果が、「他の子が出来るまでじっとしてろ」だ。小学生にそれは難しくないですかね。

 もう一人の「問題児」だって同じようなものだ。彼が何かしでかした訳じゃない。話が聞けないのも、感情をコントロールできないのも、テストで点を取れないのも、彼自身の能力の問題だ。それによって「平均的な子供」でなくなってしまっただけだ。構造的には僕と変わらないはずだ。

 だけど公立小学校のシステムだと僕らは単なるイレギュラーな存在でしかない。当時はぼんやりとした不満しか抱けなかったが、今ならはっきりと言える。システムが悪い、と。

 別に僕が天才的な能力を持っていたわけでもない。あくまで小学生のレベルだとよく出来たというだけで、小学生を逸脱するような能力は持っていなかった。だから僕のように退屈を押し付けられていた子は、だいたいどこの小学校でも各学年に10人くらいはいたんじゃないかと思う。決して珍しい存在じゃないし、僕だって最終的には大した大学にも行っていない。

 

 高校や大学での飛び級がよく話題にはなるけれど、義務教育期間、特に小学校にこそ飛び級制度が必要だと思う。もちろんその制度には、留年も含まれる。

 もしあの当時に飛び級制度があったら、なんてことをつい考えてしまう。きっと「問題児」として退屈な授業を受ける日々はなかっただろう。

 上のレベルに挑戦したとしても、敗北を喫するだけだったかもしれない。だけど、ただ単に退屈を押し付けられるだけだった時間が、何らかの勉強に使われるだけでも充分に有益であったはずだ。

 もう一人の「問題児」も同じだ。能力的に出来るはずもないことをやらされ続けたが、当然出来るわけもなかった。「能力には個人差がある」という事実を隠蔽するかのように、問題は「頑張ったか頑張らなかったか」にすり替えられ、彼は「頑張らなかった子」の烙印を押されて学業という枠組で落ちぶれていった。今のシステムでは、何度「彼」が出現しても、一向に彼を救えない。

 でも留年制度があれば、彼の成長に合わせて学年を進むことが出来れば、少しは違ったんじゃないかと思う。「みんな画一的に学年を進むのが平等」という見せかけの平等が、弱者が弱者でなくなるチャンスを奪っているように思えてならない。

 早生まれの子も同じだ。3月生まれなんて、4月生まれとほぼ一年の差がある。発育のスピードにだって個人差があるのだから、場合によってはとんでもない能力差が生まれてしまう。しかし現状だと「早生まれだし仕方ないよね」で済ますしかない。

 

 ただ、現状からいきなり飛び級制度を施行するなんていうのは不可能に近い。今のような完全に「クラス」という集団で学校生活をしている中だと、飛び級していいと言われてもなかなかしづらい。それだと僕だって飛び級しなかったかもしれない。

 きちんと機能する飛び級制度を可能にするには、クラス全員が同じ行動をするのではなく、各人が自分の受ける授業を受けに行くという高校の選択授業のようなシステムに変えないと難しい。小学校にそれを採用するにはそれなりに工夫が必要だろうが。

 上か下に飛び抜けた子の特例を許可する、という程度では基本的には今と大して変わらないのだ。その程度だと僕のような子は飛び級出来るほどでもなく、やっぱり退屈を押し付けられ続ける。

 また、飛び級制度施行後も、飛び級したり留年したりする子がそこそこいないと意味が無い。あくまで特例措置でなく、当然起こり得ることとして運用されなければならない。

 

 このようなことを踏まえると、まず実現すべきなのは飛び級制度よりも、習熟度別授業の普及だと思う。

 私立では結構行われているだろうし、公立でもやっているところはある。ただ、全ての公立小中学校で行われるべきだ。

 とはいえ、クラス自体を習熟度で分けてしまってもなかなか上手くいかないだろう。小学生では学力の変動も激しいし、小学生から常に格付けされ続ける状態になってしまう。

 そうなると先生方がかなり上手く運用していかないといけない。小学校の先生の力量に頼るようなシステムは絶対駄目だ。日本の制度だと、どうしても小学校ほど能力の低い先生が集まるような構造になっている。先生が優秀でないと学年ごと芽を摘まれてしまうのは当たり前、なんてシステムではいけないのだ。

 だからクラス分けにおいては今まで通りでいい。習熟度で分けるのは主要教科の授業だけだ。今までのシステムで上か下にあぶれてしまった、「平均的な子供」ではない子をケアするための授業を用意すべきなのだ。

 複雑なことではなく、特に出来る子と特に出来ない子が、主要教科において別室の少人数授業を受けるようにすればいい。それ以外の子は、今まで通りの授業を受ける。

 少人数だから、出来る子と出来ない子を同室に集め、一人の先生が別々の授業をすることだって可能だ。また、通常授業と同じ教科を同じ時間に受ける必要もない。通常授業で国語をやっている時に少人数授業で算数をやったとしても、最終的な授業数が同じなら問題ない。だから複数のクラスから集めて少人数授業を行うことだって出来る。このようにやっていけば、教員もそこまで不足しないで済むはずだ。

 この程度の習熟度別授業なら、現状のシステムにちょっと手を加えるだけで実現できる。ちょっとしたことなのだけど、これであぶれてしまう子がどれほど救われるか。

 私立に行けばいいだとか塾にいけばいいだという考えもあるだろうが、それでは結局金の問題になってしまう。生まれた家庭によって人生のかなりの部分を左右されてしまうのは当然のことだが、それでも公立ならば平等に、しかも多様なチャンスを与えるべきだ。

 

 ただ、日本にはびこる、画一性と平等を混同した悪平等主義が、このちょっとした習熟度別授業の実現すら阻むかもしれない。保護者や教員の反対は多少なりともあるだろう。徒競走で順位を付けないのが理想だと考えるような人間はどこにでもいるものだ。

 しかし、能力の違いを認めないその態度こそが、能力の差を埋めたり、秀でた能力をさらに伸ばしたりするチャンスを奪っているのだ。彼らに屈してはならない。

 多くの日本人がぼんやりと抱く、画一的であろうとする意識までもが悪だと言っている訳じゃない。その意識こそが日本の民度を諸外国よりも遥かに高くしている要因であることも事実だろう。しかし、それが行き過ぎたり、それではカバーできないものについては、はっきりとNOを突き付けなければならない。

 

 僕は隙あらば今の教育システムを変えてやろうと目論んでいる。どうにかして外側から揺さぶることは出来ないものかと思案している。救いたいんだ、出来る子も出来ない子も。

 でも、そう簡単には出来ないし、今すぐ出来ることでもない。だからブログでちょこっと愚痴ってみた。同じような問題意識を抱く人が少しでも増えればいいなとも期待しつつ。

 

 出来る子ほど授業が退屈になってしまう状態は、まだまだこれからも続いてしまいそうだ。家計に余裕が無いと、解消する術がないのだ。そして退屈に耐えられなくて別のことを始めてしまう子は怒られ、「問題児」になっていく。

 だけどそんな「問題児」が生まれた時、教員が怒鳴るのではなく、こんな一言を投げかける未来であってほしいと切に願っている。

 

 ——ねぇ、飛び級しない?