ムードの奴隷になっちゃ駄目だ

 誰かの記事をきっかけにして書くのはなんとも受動的で楽だ。でもそれは「自分で考えた結果」を書いているのではなく、「誰かに考えさせられた結果」を書いているだけだ。つまりは思考の主導権を他者に奪われた状態であり、いわば思考の奴隷に堕してしまっている。自分なりの答えを出したところで、その思考の土台となるムードを他者からもらっていて思考の農奴みたいなもんで、やっぱり奴隷だ。

 

 この僕がいつまでも奴隷でいるのか? それは愚問に違いない。

 

 というわけで今日もヒャッハー! 奴隷記事だぜ!

 僕は街頭募金が苦手だ。 - いつか電池がきれるまで

 読んだ。

 この記事の細かい内容に絡んだことは書かないので、今回は要約もいらないだろう。僕はただ、「街頭募金が嫌いだ」ということを言いたいだけだ。

 

 なぜ街頭募金が嫌いなのかというと、大して効果がないからだ。そして正確にいえば街頭募金というアイディアが嫌いだ。

(誰かを救うためでなく、「可哀想な人を救う」というポーズを取りたいがためにやっている街頭募金はただの下衆であり、ここで言う「街頭募金」に含まない)

 

 街頭募金で得られる資金なんてたかが知れているだろう。救いたいと強く願う理由があり、また街頭で叫べるくらい立派な意義があるならば、それをどっかの社長に説いたほうがはるかに効果がある。

 ネットのおかげで「どっかの社長」と接触するためのコストは、街頭で募金活動するよりも圧倒的に低い。ネットで連絡先を公開している社長も多いし、大きくない会社なら代表電話番号に掛ければすぐ見ず知らずの社長と話が出来る。そういう感じで僕は何人かの社長と無理矢理コンタクトを取ったこともある。よくある営業電話でないならば無防備にもみんなとりあえずは話を聞いてくれるものだ。

 具体的な救う対象があるならば、ネットのオープンさを利用する手もある。社長個人のアカウントでソーシャルな活動をしている人も多い。徒党を組み、社長へのお願いが人目に触れるように仕向ければ、相当断りづらくもなるだろう。お金の使い道が透明化されていたりして想定されうる落ち度をなくしておけば、むしろ断った金持ちの方が悪者になるのでお金を出してくれる人は必ずいる。

 もちろん、そういった各個撃破のゲリラ戦術を駆使しても、十人に一人くらい行動してくれればいい方である。しかし街頭募金よりは相当に効率がいい。お菓子食べながらでも、一日使えば百人くらいを攻めることが出来る。一日中立って叫んでも街頭募金だと集まって数万程度が関の山だろうが、このやり方で社長数人を動かせれば数万なんて軽く超えるだろう。

 

 募金という手段に限定するとしても、僕だったら街頭ではやらない。

 まず駅のような人通りの多すぎる場所を避ける。群衆に対してではなく、個人に対して呼びかけないと無視されて終わる。もし駅で誰かが何かを落としても拾ってくれる人は稀だが、その場に二人しかいなければ多くの人が拾ってくれるのと同じだ。

 そして地元でやらなければいけない理由もないので、白金あたりの住宅街の付近にあるランクの高いスーパーの近くでやる。そこで買い物袋をぶら下げているのにオシャレしているようなマダムに声を掛ければ、駅で叫ぶよりもとんでもなく楽だろう。

 もしくは団地の周辺の公園を午前中に回る。ママ友の輪に入って頼めば、率先して断る人も少ないだろうし、見栄もあって誰かが募金してくれる確率は高い。一人が募金してくれればみんな募金してくれるから、これも楽である。恵まれない子供を救う類の募金ならなおさらである。

 

 街頭募金を見る度に、こういうことが頭を巡って嫌になる。「上連中も下の連中も何考えてそんなことやってんだ」と問いただしたくなる。もしそれが募金詐欺だったとしても、「リスクの割に儲けが少なすぎるだろ!もう少し頭使え!」と言いたい。

 

 当然ながら、ここで挙げたようなやり方には様々な心理障壁があるだろう。

 しかし、「救う」という明確な目的があるならば、別に構いやしないはずだ。そんな壁、ちょっとした段差程度のものだろう。

 単なる部活動とは違ってこういう問題に関しては結果が全てであり、「募金が集まらず恵まれない子供たちは死んでしまったが、声が枯れるほど彼らが頑張ったので良しとする」という考えが付け入る隙などない。命をネタにする以上、金集めてナンボ、助けてナンボである。

 企画者だろうが末端の人間だろうが、学生だろうがボランティア活動の一環だろうが、救われる命にそんなことは関係ない。救いたいと願って行動するなら本当に救える行動をすべきなのだ。

 

 とはいえ、街頭募金もそれを実行する彼らも嫌いだが、彼らの善意までは否定できない。何もしないよりはましだし、彼らは見るからにいい人そうであり、一生懸命であり、街頭募金しか手段を思いつかなかっただけのように見えるからだ。流石に知恵が働かなかった善意までも否定する気にはなれない。だから始めちゃった街頭募金に関しては頑張ってやってほしい。

 ただ知恵が働く方が断然好きなのは言うまでもない。電気のいらない冷蔵庫やどんな水も飲料水に変える装置、そういった貧困を救うための画期的なアイディアを目にする度にワクワクする。そしてウェブ研活動方針だってネットによる娯楽・教育・富の再分配だ。だから余計に「救えない善意」がもどかしい。

「救えない善意」という考え方は僕の喉元に常に突き付けられている刃でもある。僕が新しいアイディアを出せなくなった時、そいつは僕は切り裂くかもしれない。

 

 彼らが街頭募金なんていう行動を選択しているのは、雰囲気に流されているからだろう。「お金を集める、じゃあ募金だ」というムードの奴隷なのだ。学校の活動なら「奉仕活動、なら募金だ」という感じだろう。そして「募金を呼びかけるなら人通りの多い駅などの場所」といった具合にどんどん漠然としたムードによって行動が定められていく。

 それではいけないのだ。目的を実現するためには忍び寄るムードに反抗しなければならない。目的があるならば、ムードが用意した思考の土台で戦っちゃ駄目なんだ。

 これはどんな領域でもそうだ。就活だって創作だって同じだし、ブログだって同じだ。僕らは往々にしてムードに隷属した状態で悩んでいる。それはくだらないことだ。そういう悩みは基本的にムードが孕んでいる構造的欠陥であり、自分自身の悩みとは違うからだ。そこから離れれば悩みも消える。

 ムードが何なのかを見極めるのは難しいことだが、ほとんどの場合、ムードに抗わずに何かを成し遂げる方が難しい。

 

 僕はいろんなことでいろんなことを成し遂げたいとずっと思っていた。だから、多くの場所でムードと衝突して生きてきた。ムードから逃れたものも沢山あるけど、まだまだ僕はいろんなムードの奴隷だ。やつらはいつだって僕を絡め取ろうと忍び寄る。

 

 かといって僕はいつまでも奴隷でいるのか? それは愚問に違いない。