ねぇ、飛び級しない?

 僕は小学生のころ、問題児として扱われた時期があった。与えられた席は特等席。一番前の席よりもさらに前。教卓の真横だ。ふざけんなよ。

 そうなった理由は、僕が大人しく授業を受けられないからだ。まぁ……言い分は理解できる。

 僕の他にもう一人、特等席を与えられた子がいた。やはり彼も僕と同様に、大人しく授業を受けられない。まったくしょうがない奴だ。

 そりゃ僕だってしょうがない奴には違いないのだけど、今思えばこの特等席が、日本の教育システムの問題を端的に示しているように思える。

 

 僕じゃないほうの問題児は、先生の話をまともに聞けず、すぐキレて、テストでもほとんど点を取れなかった。それを何とかケアするために、特等席を与えられていた。

 じゃあ僕も同じかというと、そうではなかった。先生の話はすぐに理解したし、指されても即答出来たし、練習問題もすぐに解き終わったし、テストは基本的に100点だった。

 ではなぜ問題児とされたのか。それは退屈だったからだ。先生の話をすぐに理解し、退屈だった。何を問われても答えられるくらい理解していたから退屈だった。練習問題もすぐに解き終わったので退屈だった。

 所詮は小学生だ。退屈ならおしゃべりもする。そして怒られる。また退屈になれば別のことをやったりする。そして怒られる。怒られずにできることといえば、教科書を読むことくらいだ。でもそのせいで、次の授業は先生の話を全く聞かなくてもよくなり、もっと退屈になってしまった。そうなると、もっといろんなことをして、もっと怒られた。そうして僕は「問題児」となった。

 

 結局僕は、日本の教育システムからあぶれてしまったのだ。出来るか出来ないかの問題じゃない。「平均的な子供」でなかったことがいけなかったのだ。

 塾になんか行っていなかった。予習も復習もしない。宿題以外の勉強もしなかった。僕が特別なことをした訳じゃない。「話を聞け」と言われたから聞いた。「問題を解け」と言われたから解いた。「テストを受けろ」と言われたから受けた。それを全て上手くこなして退屈になった結果が、「他の子が出来るまでじっとしてろ」だ。小学生にそれは難しくないですかね。

 もう一人の「問題児」だって同じようなものだ。彼が何かしでかした訳じゃない。話が聞けないのも、感情をコントロールできないのも、テストで点を取れないのも、彼自身の能力の問題だ。それによって「平均的な子供」でなくなってしまっただけだ。構造的には僕と変わらないはずだ。

 だけど公立小学校のシステムだと僕らは単なるイレギュラーな存在でしかない。当時はぼんやりとした不満しか抱けなかったが、今ならはっきりと言える。システムが悪い、と。

 別に僕が天才的な能力を持っていたわけでもない。あくまで小学生のレベルだとよく出来たというだけで、小学生を逸脱するような能力は持っていなかった。だから僕のように退屈を押し付けられていた子は、だいたいどこの小学校でも各学年に10人くらいはいたんじゃないかと思う。決して珍しい存在じゃないし、僕だって最終的には大した大学にも行っていない。

 

 高校や大学での飛び級がよく話題にはなるけれど、義務教育期間、特に小学校にこそ飛び級制度が必要だと思う。もちろんその制度には、留年も含まれる。

 もしあの当時に飛び級制度があったら、なんてことをつい考えてしまう。きっと「問題児」として退屈な授業を受ける日々はなかっただろう。

 上のレベルに挑戦したとしても、敗北を喫するだけだったかもしれない。だけど、ただ単に退屈を押し付けられるだけだった時間が、何らかの勉強に使われるだけでも充分に有益であったはずだ。

 もう一人の「問題児」も同じだ。能力的に出来るはずもないことをやらされ続けたが、当然出来るわけもなかった。「能力には個人差がある」という事実を隠蔽するかのように、問題は「頑張ったか頑張らなかったか」にすり替えられ、彼は「頑張らなかった子」の烙印を押されて学業という枠組で落ちぶれていった。今のシステムでは、何度「彼」が出現しても、一向に彼を救えない。

 でも留年制度があれば、彼の成長に合わせて学年を進むことが出来れば、少しは違ったんじゃないかと思う。「みんな画一的に学年を進むのが平等」という見せかけの平等が、弱者が弱者でなくなるチャンスを奪っているように思えてならない。

 早生まれの子も同じだ。3月生まれなんて、4月生まれとほぼ一年の差がある。発育のスピードにだって個人差があるのだから、場合によってはとんでもない能力差が生まれてしまう。しかし現状だと「早生まれだし仕方ないよね」で済ますしかない。

 

 ただ、現状からいきなり飛び級制度を施行するなんていうのは不可能に近い。今のような完全に「クラス」という集団で学校生活をしている中だと、飛び級していいと言われてもなかなかしづらい。それだと僕だって飛び級しなかったかもしれない。

 きちんと機能する飛び級制度を可能にするには、クラス全員が同じ行動をするのではなく、各人が自分の受ける授業を受けに行くという高校の選択授業のようなシステムに変えないと難しい。小学校にそれを採用するにはそれなりに工夫が必要だろうが。

 上か下に飛び抜けた子の特例を許可する、という程度では基本的には今と大して変わらないのだ。その程度だと僕のような子は飛び級出来るほどでもなく、やっぱり退屈を押し付けられ続ける。

 また、飛び級制度施行後も、飛び級したり留年したりする子がそこそこいないと意味が無い。あくまで特例措置でなく、当然起こり得ることとして運用されなければならない。

 

 このようなことを踏まえると、まず実現すべきなのは飛び級制度よりも、習熟度別授業の普及だと思う。

 私立では結構行われているだろうし、公立でもやっているところはある。ただ、全ての公立小中学校で行われるべきだ。

 とはいえ、クラス自体を習熟度で分けてしまってもなかなか上手くいかないだろう。小学生では学力の変動も激しいし、小学生から常に格付けされ続ける状態になってしまう。

 そうなると先生方がかなり上手く運用していかないといけない。小学校の先生の力量に頼るようなシステムは絶対駄目だ。日本の制度だと、どうしても小学校ほど能力の低い先生が集まるような構造になっている。先生が優秀でないと学年ごと芽を摘まれてしまうのは当たり前、なんてシステムではいけないのだ。

 だからクラス分けにおいては今まで通りでいい。習熟度で分けるのは主要教科の授業だけだ。今までのシステムで上か下にあぶれてしまった、「平均的な子供」ではない子をケアするための授業を用意すべきなのだ。

 複雑なことではなく、特に出来る子と特に出来ない子が、主要教科において別室の少人数授業を受けるようにすればいい。それ以外の子は、今まで通りの授業を受ける。

 少人数だから、出来る子と出来ない子を同室に集め、一人の先生が別々の授業をすることだって可能だ。また、通常授業と同じ教科を同じ時間に受ける必要もない。通常授業で国語をやっている時に少人数授業で算数をやったとしても、最終的な授業数が同じなら問題ない。だから複数のクラスから集めて少人数授業を行うことだって出来る。このようにやっていけば、教員もそこまで不足しないで済むはずだ。

 この程度の習熟度別授業なら、現状のシステムにちょっと手を加えるだけで実現できる。ちょっとしたことなのだけど、これであぶれてしまう子がどれほど救われるか。

 私立に行けばいいだとか塾にいけばいいだという考えもあるだろうが、それでは結局金の問題になってしまう。生まれた家庭によって人生のかなりの部分を左右されてしまうのは当然のことだが、それでも公立ならば平等に、しかも多様なチャンスを与えるべきだ。

 

 ただ、日本にはびこる、画一性と平等を混同した悪平等主義が、このちょっとした習熟度別授業の実現すら阻むかもしれない。保護者や教員の反対は多少なりともあるだろう。徒競走で順位を付けないのが理想だと考えるような人間はどこにでもいるものだ。

 しかし、能力の違いを認めないその態度こそが、能力の差を埋めたり、秀でた能力をさらに伸ばしたりするチャンスを奪っているのだ。彼らに屈してはならない。

 多くの日本人がぼんやりと抱く、画一的であろうとする意識までもが悪だと言っている訳じゃない。その意識こそが日本の民度を諸外国よりも遥かに高くしている要因であることも事実だろう。しかし、それが行き過ぎたり、それではカバーできないものについては、はっきりとNOを突き付けなければならない。

 

 僕は隙あらば今の教育システムを変えてやろうと目論んでいる。どうにかして外側から揺さぶることは出来ないものかと思案している。救いたいんだ、出来る子も出来ない子も。

 でも、そう簡単には出来ないし、今すぐ出来ることでもない。だからブログでちょこっと愚痴ってみた。同じような問題意識を抱く人が少しでも増えればいいなとも期待しつつ。

 

 出来る子ほど授業が退屈になってしまう状態は、まだまだこれからも続いてしまいそうだ。家計に余裕が無いと、解消する術がないのだ。そして退屈に耐えられなくて別のことを始めてしまう子は怒られ、「問題児」になっていく。

 だけどそんな「問題児」が生まれた時、教員が怒鳴るのではなく、こんな一言を投げかける未来であってほしいと切に願っている。

 

 ——ねぇ、飛び級しない?

 

 

月間1000万PV突破したけど儲からねぇなこれ

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 去年8月に始めたアプリ☆メーカーだが、先月7月のPVが1103万だった。

 月間PV数なんて人に言うくらいにしか役に立たないのでろく見ていなかったが、ふと6月にチェックしてみたら900万を超えていてびっくりした。

 こりゃもしやと思ってチェックし始めたところ、期待通りに7月は月間1000万PVを達成した。

 他人事のように言うけれど、個人でやって月間1000万PVってすごいなぁと思う。

 でも既に作っちゃったサービスだし、そんなことより次のサービスが気になる。誰かアプリ☆メーカー買ってくれないかなぁ、なんて思ってしまう。

 僕は釣った魚よりもこれから釣る魚に興味があるのだ。

 

 こうも冷めてるのには他にも理由があって、実のところ、アプリ☆メーカーはそんなに儲からないのである。

 理念で掲げる「新しい収入源の提供」を実現するため、アプリ☆メーカーはユーザーに広告収益をあげちゃうという捨て身運営をしてるからだ。運営はユーザーのおこぼれをもらう程度であり、サイトが生み出す広告収益の1割程度しか得られていない。サーバー負荷が半端ないサービスなので経費もかかる。

 だから実質的には月間100万PVのサイトと同じくらいの収益だろうと思う。月間100万PVでは、はっきり言って広告収益だけでは「儲かってる」と言えるレベルにはなれない。

 収益率を上げるための施策とか頑張ればもっと儲かるのかもしれないが、面倒だ。面白くない。

 なので本当にいっそのこと誰かがポーンと1億くらい出してアプリ☆メーカーを買ってくれると楽でいいのになぁと思う。

 

【2015年末追記】

さらに成長してちょっと儲かり始めました。ありがとうございます。

Google Japan本社に呼ばれた話

 突然Googleからメールが来た。

 内容は、「AdSenseの有力ユーザーを集めてセミナーとか懇親会とかやるから来なよ!」というもので、そりゃまぁ行きますわ。すぐに参加希望の申し込みをした。

 

 というわけで5月25日、六本木ヒルズにあるGoogle株式会社(Google Japan Inc.)のオフィスで開催された「2014 AdSense Partner Summit in 東京」に参加してきた。サミットと言うからにはなんかすごいんだろうな、と期待しつつ……

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 25日の朝10時前に会場であるGoogle Japan本社に到着すると、六本木ヒルズのスタバの横に受付があった。そこで招待状と名刺1枚を渡した。

 名刺1枚を渡すというシステムについては、おそらく懇親会で100人規模の名刺交換が始まると収集が付かなくなってしまうので、あらかじめ1枚だけを預かり、その情報をうまく共有させて円滑に事を進めるためだろうと予想した。このイベント自体がGoogle+で管理されていたので、名刺情報もそこで公開範囲を参加者に限定して共有すれば、参加者にGoogle+という自社サービスを利用させつつ同時にコミュニケーションを促すこともできる。

 名刺1枚を渡すというシステムの裏にこういうスマートなアイディアが見えたので、僕は「Google先生はやっぱり頭がいいなぁ〜」なんて思った。

 が、聞いてみたら実際は名刺1枚を渡すことに大した意味はないようで、「どういう人が参加したのかをGoogleが知るため」という程度であったw 僕が見たスマートなアイディアは幻覚でしかなかった。そしてイベント終了後も参加者の情報は特に共有されないという……

 

 それはさておき、受付を済ませるとGoogleのオフィスがあるフロアに案内された。サミットはまずセミナーから始まる。それが始まるまでの間は、「バー」と呼ばれるところで待つ。

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  一見すると、単に他人同士が集まってそわそわした感じだ。しかし招待されたのはAdSenseで稼いでいる猛者およそ100人だ。大手サイトのように月数百万、数千万を稼ぐようなレベルではないかもしれないが、ここに呼ばれている以上、みな只者ではない。戦いは既に始まっていたはずだ。僕の実力では確認出来なかったが、おそらくこの時点で命を落とした者もいるに違いない。脱落者というのは得てして人知れず消えゆくものだ。

 

 始まるまでは朝食を自由に食べていいとのだった。バーカウンターにはパンや飲み物が用意されていた。

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 何も食べずに来た僕はお腹が空いていたので、チョコパイとくるみパンとコーヒーをもらってきた。

 結構ボリュームがあるせいで食べるのに時間がかかり、セミナー開始ギリギリまで食べ終わらなかった。

 その結果セミナーを行う部屋の席はほとんど埋まってしまい、中途半端な隙間の席に「すいません、ここいいですか?」と言って座った。

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 水は飲み放題。

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 セミナー開始前には、GoogleのCMが流されていた。開始後の撮影はNGなので、セミナーに関する写真はこれだけ。

 セミナー内容は、主にモバイルの重要性についてだった。非常に正しく、そして重要なことではある。

 ただ、AdSenseで稼いでいる人が呼ばれているので、モバイルが欠かせないのはみんな痛いほどわかっているだろうし、そもそもモバイル欠かしてここに呼ばれた強者なんているのか!?と思わずにはいられなかった。

 

 セミナーは午前と午後に分かれており、午前が終了すると懇親会と称した昼休みになる。

 Googleの食堂と言えば、専属シェフが振る舞う豪勢なバイキングで有名だ。僕はわくわくしていた。この昼休みにそれを堪能できる! そう思うとセミナー中からよだれ垂れ流し状態であった。このサミットに参加したのもむしろ食堂目当てだったと言っても過言ではなかった。

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 しかしだ! 昼食で食堂は使われず、朝食と同じようにバーカウンターに軽食が並ぶだけだった!

 これはショックだった。大いにショックであった。写真の奥には食堂の扉が写っている。てっきりその扉とともに食欲のパラダイスが開かれるのだと思っていた。自分は楽園へのチケットを手にしていたのだと思っていた。ああ食堂よ……それははかない夢であった……

 

 落ち込んでいても仕方ないので食べ物とグレープフルーツジュースを取ってきた。

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 唐揚げも取ってきた。

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 唐揚げの下にはポテトがこっそりと仕込まれている。参加者は日本人らしさを発揮していて、みんなちょっとずつしか食べ物を取って行かなかった。そのせいで唐揚げが結構あまっていたので、僕はもう一回唐揚げを取りに行った。

 バーの窓側はこんな感じで、とても見晴らしがいい。

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 そしてお分かりいただけるだろうか、この懇親してる感じの全然ない懇親会が……

 懇親会と名の付いているものの、Google側が何かをするわけでもなく、ただの昼休みだった。「面識のない人達を100人集めたとしても、自由にさせとけばみんなすぐに打ち解けて盛り上がっちゃうよね☆」というメリケン思考で企画してしまった感がある。「ルールやモラルで縛らずに日本人を動かす」という行為の難しさを見くびっているように思える。集まった人達も、大雑把に言えば「日本人をどう動かすか」を日夜考えている人達なわけで、僕以外にも同じように思った人はいるだろう。

 まぁこの写真が撮られた後に段々と会話する人も増えたのだが、活発に懇親が行われて盛り上がっていたとは言えない状態だった。

 

 会場にはこんなものも。

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 ストリートビューのあれこれ。

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 モニターに囲まれてストリートビューをがっつり体感できる装置もあった。最初は「おお!すげぇ!」と興奮したが、いろいろいじってみると意外と面白くない。

 

 午後のセミナーの詳しい内容は忘れたが、多言語対応の重要性についてだとかそういうことをやっていた。

 午前、午後のセミナー両方で思ったことがある。

「これ、レジュメでよくね?」

 質疑応答もなく、スライドを順次表示しながら進め、一方的に情報を伝えていくという真面目なスタイルだ。でもそれならばレジュメを配るほうが効率良さそうだし、参加者もメモを取る必要がなくて楽だ。

 セミナーの撮影がNGなので情報の秘匿のためなのかもしれないが、セミナー内容はデータの提示と概論に終始していたので、全情報が公開されても特に問題なさそうである。

 価値のないセミナーでは決してなかったが、一参加者にとしては「そうだよね、そうだよね、あるある」という程度の情報しかもらえなかったのが非常に残念であった。

 

 しかし、セミナーの後の個別事例のパネルディスカッションは面白かった。有名サイトの運営者が3人登壇し、「実際に何をやったのか」について話してくれた。

 これはそこそこ具体的な話をしてくれたので結構良かった。あまり長い時間はやらなかったが、こちらをメインにした時間配分だったらもっと面白くなったかもしれない。

 

 パネルディスカッションが終わると、後は申し込んだ人だけが参加するワークショップがあるだけで、全体としては解散である。

 僕はワークショップを申し込んでいなかったので、これで終了だった。もっとすごいことが起こるんじゃないかと期待ていたが、なんだか消化不良気味に終わってしまった。

 せっかくGoogleに来たのだから、なんか記念にほしいなぁとも思ったが、ここは観光地ではない。お土産屋さんのように「Googleに行ってきましたまんじゅう」だとか「Androidカステラ」とか「AdSenseクッキー」なんてあるわけ——

 

 

 

 

 

 

 

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 あったぁぁぁぁ!!! なんとアンケートに答えたらAdSenseクッキーがもらえたのだ!

 なんだこれ! なんでこんなん作った!?

 

 AdSenseクッキーを大事にしまいつつ、バーカウンターに目をやるとお菓子がいっぱい並んでいた。またこれも自由に食べていいという。

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「健康なんか……どうなったってかまわない!」という覚悟を感じ取れる鮮やかなGoogleの文字。

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 こんな風に何でもかんでも自由に取らせれば喜ぶと思うのは大間違いである。

 まぁ、全部取ったけど……美味しかったけど……

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 見晴らしのいい席でおやつタイム。

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 なんとお酒も飲み放題だった。

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 でもセミナーに来てお酒をもらう日本人なんてそうはいないだろうにw

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 ……モヒートもらいました。

 

 

 

 

 Google、最高だよね☆

 

 

 

 

 

 

 さて、帰る前にGoogleの社員さんとも少し話したのだけれども、このサミットは手探り感満載だった。Googleに来られただけでも結構楽しいのだから、もうちょっと工夫すれば相当面白いイベントになったはずだ。

 根本的なところで良くなかったのは、参加者に「なぜ呼ばれたのか」を理解させないまま呼んだことだろう。ビジョンを提供しなかった。だから参加者はどう行動するのが正しいのかを判断出来ず、ただ座って話を聞くだけで終わってしまった。AdSenseの猛者と言ってもそれは同時にGoogleに生殺与奪を握られているようなものなので、自分の判断で勝手に行動するなんてことは到底出来ない。すごい人達が集まっているのに、なんらかのクリエイティブなアクションをしやすい場でなかったのは、非常にもったいない。

 

 とはいえ、結構ボロクソに言っているようだけども、楽しかったのでまた開催されたら行きたいと思う。

 とりあえず以下の点を実行すれば、個人的には相当面白くなるんじゃないかと思う。

・サミットの目的を明確化して周知

・承諾した参加者の情報をGoogle+で限定的に共有し、コミュニケーションを促進

・懇親会を「日本人の懇親のためのアーキテクチャ」として設計する

・レジュメでセミナーの時間を短縮し、パネルディスカッションの時間を増やす

 特に懇親会をうまく設計してほしいと思っている。

 たとえば当ウェブ研はCGMメディアを主に作っているのだけど、そうなってくるとスマホゲームを作っている人やブロガーやなんかとはやってることが大きく違う。だから互いに懇親を図ろうとしても、使う用語すら通じないことだってあるだろう。おまけにいろんな人と懇親を深めても互いのサービスには全く役立たないなんていうこともあり得る。

 したがって「AdSenseユーザー」で一緒くたに懇親会をしても無駄が多く、分野ごとに集めたほうがいい。

 もっと言うと、どうせ放っといてもみんな積極的には話さないから、分野ごとの班に分け、それぞれの席も決め、Google側で決めた順番で強制的に自己紹介や個別事例を話すようにしたっていいくらいだ。

 異分野との交流が無意味だとは思わないが、せっかく集まっているのだから同じ分野で交流をどんどん促進させてこそ面白くなるはずだ。

 

 また、パネルディスカッションはゲスト以外を登壇させたっていい。共有した参加者情報があれば、「登壇してもらいたい方がいるという方はいませんか?」とでも聞けば他薦で登壇候補が何人も出てくるだろう。そうなれば実際に登壇してくれる人もいるはずであり、実際にAdSenseで稼いでいるのだから、適当に質疑応答を進めれば面白い情報をしゃべってくれるだろう。

 

 というわけで、次回はもっと面白いイベントになってくれることを願っている。めっちゃ願ってる。

 

おまけ

 ちょうどオクトーバーフェストがやっていたので帰りに寄ってみた。

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 いろんなビールとドイツ料理。大人の縁日という感じ。

 

 なんだかんだで結構楽しい一日でした。

 Google先生、ありがとうございました!

 

 

他の方の記事

 この記事では真面目にイベント内容を書いていないので、詳しく知りたいという方は他の参加者の方が書いた記事を読んでください。

 

Google AdSense日本版公式ブログ

 Inside AdSense : 2014 AdSense Partner Summit in 東京を開催しました

 参加者みんなで記念写真を撮るとのことだったが、僕がラウンジに行った時にはもう撮影が終わっていた……

 

・参加者の記事

 Googleで聞いたサイトを中長期的に成長させるポイント | iscle[イズクル]

 AdSense Partner Summit in 東京に参加してきたので、セミナー内容のメモをシェアします | Someya Masatoshi.jp

 【レポート】AdSense Partner Summitに行ってきた!ユーザーに焦点を絞れーー!!| らふらく^^ ~ブログで飯を食う~

 Google Adsense Partner Summit in 東京! | Yujiro Sakaki Website

 5/25「AdSense Partner Summit in 東京」に参加した | アフィリエイト執事ブログ

 Google の「2014 AdSense Partner Summit in 東京」に参加してきました | なにごとも経験

 2014 AdSense Partner Summit in 東京に行ってみた | TRIVIAL TECHNOLOGIES 4 @ats のイクメン日記

 Google AdSenseの東京イベント・セミナーに行ってみた。アドセンスのお勉強|ミマコの素肌美人ブログ

 AdSense Partner Summit in東京

 

追記 

 モバイル端末でいくつかの画像が上下逆になるのを修正しました。

サーバーを使わないWebサイト作った

 Webサービスを作る若者の集い - はてなブログ グループにまだ誰も参加してくれないので(これを書いている時点では)、まずは自分のサービスを紹介しちゃう。

 

 WebRTCという技術があるんだけど、そいつはブラウザさえあればサーバーを介さずにユーザー同士を繋いじゃう技術だ。要はブラウザだけでP2P出来ちゃうぜ、変なソフトとか特別な設定とかなんもいらないんだぜ、という夢のテクノロジーなのである。おまけに実装も難しくなく、また、どのブラウザでもそこそこ対応が進んでいてる。

 そんな面白い技術があるのだから、ウェブ研でもさっそくWebRTCを使ったサービスを作ってみた。

 

 ペーパートーク - WebRTCでチャット・通話・ファイル送信 -

 

 ペーパートークはサーバーを介さずユーザー同士がチャット・通話・ビデオ通話・ファイル送信出来るサイトだ。面倒な登録やなんかも一切なく、アクセスすれば即使える。

 仕様上、ユーザーがサイトにアクセスした瞬間にはちょっとだけサーバーを使うが、サイトの基本機能であるチャット等では一切サーバーを使っていない。だからこういうリアルタイム通信をするサイトはサーバーに滅茶苦茶な負荷がかかってしまうのが常なのに、ペーパートークではどれほど大容量のデータをやりとりしても負荷はほとんどない。実際ユーザーとしてはそんなの知ったこっちゃない話だが、開発者サイドからするとこれは夢がありまくる技術だ。

 ただ、夢の技術とはいえ問題点は山ほどある。まず、WebRTCの対応度合いが各ブラウザでまちまちで、モバイル版だったり、ユーザー同士が異なるブラウザだったり、同じブラウザのバージョン違いだったりすると機能しないことがある。そのうち規格が統一されてそういう問題も解消されそうだが、すぐに解消されるという訳ではなさそうだ。

 さらに、送信するファイルが10Mを超えてくると上手く送れないことが多かったりもする。

 

 だからまぁ実際のところはまだ全然実用的じゃない技術なのだけど、とにかく夢がある。

 この夢の技術に興味がある人は、是非ともペーパートークをいろいろいじってみて、WebRTCの可能性に胸を踊らせて欲しい。

 

 ペーパートーク - WebRTCでチャット・通話・ファイル送信 -

 

個人でWebサービスを作る若者のためのグループを作った

 ネットというのは本当に素晴らしいもので、個人がいきなり世に制作物を発信できる。

 しかし、情報の海たるネットではやっぱり埋もれがちだ。個人制作のWebサービスでも、作ってすぐ流行るのは結局「○○のXXさんが作った」などの何らかの下地がある場合がほとんどだ。なんの下地も繋がりもない個人が良い物を作ったところで、すぐ人に使われるなんてことはあり得ない。そういう面では依然として個人にやさしい環境ではない。当ウェブサービス研究会の制作物はお陰様でそこそこ使われているものの、今に至るまではただただ暗中模索の日々だった。

 

 僕はこんな現状を変えたいと思った。

 一個人が何か作ったとしよう。紹介する相手もいない。じゃあどうすればいいのか?

 その答えが必要だと思った。

 具体的には、互いに制作物をチェックし、面白そうなものがあれば世に発信していくコミュニティが必要だと思ったのだ。

 必要なら存在しなければならない。誰も作らずにいる状況でなお、それを欲するならば自ら作る以外に道はない。

 だからまず手始めに、はてなブロググループで作った。

 まだ人は集まっていないが、もう機能はする。僕がいるからだ。少しずつになってしまうだろうが、なるべく参加者の制作物を世に発信していきたい。

 

 ただ、グループはきっかけに過ぎない。はてなブログ利用者に限定されてしまうし、「答え」としては物足りない。

 将来的にはWebサービスとしてしていきたいと思っている。「どうすればいいのか?」という問いに対して「ここに来ればいい」と答えられるような場所であり、何も持たざる若者が世に名乗りを上げるためのインフラだ。

 

 その前身となるものに、参加してみませんか?

 

 Webサービスを作る若者の集い - はてなブログ グループ

 

 

ウェブサービスを作ったらセレブになってしまった話

 「即興小説トレーニング」というサイトがはてなブログ界隈でじわじわと使われ始めているのをご存知だろうか?

 そのサイトがどんなものなのかを説明するのは面倒なので、知りたい人はサイトに行って見てきてほしい。

 

 ぽつりぽつりと即興小説トレーニングを紹介する記事が出てきているのだけど、最初にその存在を多くの人に知らしめてくれたのは某コンビニ店長だった。今はネットから姿を消しているようだけど、即興小説トレーニングとはどういうものか、またいかにして戦えばいいのかという点を詳細に綴ってくれた。

 そして時は経ち、今度は僕自身の「テクニックの前にメンタルを鍛えるとどうにかなっちゃうことが多い」という記事がそこそこブックマークされ、そこそこ拡散した。

 それによって即興小説人口(サイトに来ただけで勝手に即興小説愛好者とみなしてます)が1万人以上増えた。あんまり覚えていないが、確かそんぐらい来た。

 おまけにズイショさん(id:zuiji_zuisho)も「即興小説面白いよ」という記事を書いてくれた。

 

 さらに暫く経つと、ズイショさんはまた「続・即興小説面白いよ」という即興小説紹介記事を書いてくれた。

 するとその記事を読んで即興小説ユーザーになったらしい「ひきこもり女子いろいろえっち」の人(id:luvlife)も「時限爆弾式即興小説」という記事を書いてくれた。翌日になると卯野抹茶さん(id:macchauno)も「自分のために物語を紡ぐ:即興小説という癒やし」を書いてくれた。

 そうしてはてなブログで紹介記事が急に出始めたことに喜んでいると、今度は卯野抹茶さんの記事を読んで即興小説ユーザーになったてぃぐてぃぐさん(id:tigtig8)さんが「即興小説を書いてみました」という記事を書いてくれた。

 この記事を投稿したすぐ後にげろしゃぶさん(id:grshb)も「即興小説書いた - 働きたくないでござる 」を書いてくれた。

 

 ここに挙げている記事以外にもちらほら言及してくれている記事があったし、はてなブログ以外でもちらほら紹介してもらっている。僕が確認していない記事も結構あるかもしれない。

 記事を書いてくれた皆様、本当にありがとうございます。アクセス云々より、ただ単純に嬉しいです。

(あとブログに書くネタが思いつかない皆さん、そういう時は即興小説の紹介記事がいいと思いますよ!)

 

 そんなこんなでじわじわとはてなブログ界隈で即興小説ユーザーが増えているらしいのだけど、即興小説のおかげでついに——僕はセレブになった!

 は! は! は! セレブ……セレブ……その言葉を心の中でつぶやくと、胸の奥で小さなつぼみが花開くような幸福感が芽生える。セレブだ、とうとうセレブになったのだ。

 ——それも鼻セレブ! ただのセレブじゃないぞ、鼻だ! 鼻セレブなのだ!

 福音は唐突にやって来た。ウェブ研宛にAmazonの段ボールが届き、開けてみると中に鼻セレブがあった。

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チェブラーシカ可愛い……)

 

 ——なぜ鼻セレブが届いたんだ?

 僕はその意味を即座には理解できなかった。だが同梱されてた納品書を見て納得した。

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 ——ああ、僕は選ばれたのだ、鼻セレブに! はてな村の住人が僕を鼻セレブに選んだのだ! ほしい物リストを公開し、即興小説トレーニングを作ったおかげで!

 id:kyokucho1989さんには感謝しなければならない。この時期に鼻セレブをもらえることの戦略的重要性は痛いほど理解している。もうすぐ杉帝国の花粉軍団による野蛮な侵攻によって鼻下カピカピ戦争が始まるからだ。鼻セレブの防衛力は極めて高く、「鼻の下のイージス」の異名にふさわしいものだ。

 しかしだ、それ以上に重要なことがある。

 ——この納品書にははてな村の住所が書いてあるのだ!

 はてな村などあるはずがない。多くの人々がそう思っていた。

 ふふ! は! ははは! だがなんてことはない! はてな村は実在した! ここに住所が書いてあるじゃないか!

 僕は行かなければならない。はてな村という地に。

 ——そこで何をするのか。

 それはまだわからない。しかし道はひらけるだろう。なぜなら僕は鼻セレブだから! は! はは! なに、鼻セレブにはそれだけの力があるのだ! 憂うことなどない!

 id:kyokucho1989さん、ありがとう!

 鼻の下のカピカピに、さようなら!

 そして全ての即興小説ユーザーに、おめでとう!

成功するために考えたい4つのこと

 世の中はうまくいかないことばっかりだ。うんざりするほどハードモードだ。

 

 でも、うまくいったことだって何度もあった。

 そんな時の自分を思い出してみた。すると、そこには共通する4つのことがあると気づいた。

 今回はその4つを紹介したい。

 

 何かで成功したいと思った時、以下の4つのことを意識しながら取り組んでみれば、より成功に近づけるはずである。

  

自信を持つ

  これはよく言われていることであるが、うまくいった時の自分は自信を持っていた。

 ただ注意すべきなのは、「きっと大したことない」とか「自分なら大丈夫」といったような過信や自惚れに近い自信ではないということだ。そういった類の自信は変化や逆境に弱く、何かイレギュラーなことが起こった時に実力を発揮できなくなってしまって失敗を導いてしまう。

 重要なのは「問題が起こっても何とかする」とか「今は駄目でも成長してみせる」といった、意志や覚悟に近い自信である。この類の自信は変化や逆境に強く、実力的に乗り越えられる問題ならばまず乗り越えられる。

 また、後者の自信は楽観的な心境をもたらしてくれるので、問題に対してあせらず適切な行動を取りやすい。

 

迷わない

 うまくいく時は、たとえ選択が間違っていても決断を迷わない。それによって小さな失敗を招くこともよくあるが、結果としては迷わないであれこれやったほうがうまくいっている。

 

 自分がうまくいかない時、もしくはうまくいかない人に目を向けると、逆にとても迷っている。どうしようもなく駄目なパターンだと迷って迷って悩んで気に病んだりしている。

 そういった時に思考はどんなステージにいるのかというと、必ず「どうしたらいいかを考える」というステージに留まっている。

 誰しも「どうしたらいいかを考える」瞬間はある。どうすべきかわからない場合もある。しかしだ、そういった場合になんのフィードバックも得ていないのにまた「どうしたらいいかを考える」ことを始めてもしょうがないのだ。それは明らかであるのだが、うまくいかないパターンでは大抵それをやってしまっている。そして、「どうしたらいいかを考える」というステージに留まることこそ「迷う」ということである。

 どうしたらいいかわからない場合は、とにかく何らかのフィードバックを得なければどうしようもない。つまりは試行錯誤であり、とりあえずやってみて「どうしたらいいかを探る」というステージに行くのだ。「どうしたらいいかを考える」というのは単なる必須チェックポイントであり、ステージとすべきではない。倒すべき相手もゴールもない。そこに留まっていても得られるものはない。

 

質より量

 ほとんどの物事において、圧倒的に質より量が重要である。運頼みではなく、まっとうにうまくいっているパターンではまず量の確保がきちんと出来ている。

 

 逆にうまくいかない時はまず質を気にしがちだ。量の確保を第一に考えていないのだ。

 とにかくそこがいけない。

 そもそも物事に秀でるプロセスには、どう考えてもまず量が必要となる。秀でるということは質が高くなるということだが、量より前に質があるなんてことはないのだ。

 したがって質を高めたいと思っていても第一に考えなければいけないのは、量の確保だ。それが出来て初めて質にこだわることが許される。

 それなのに質を最初に考えるからうまくいかない。そんなのは成功してからやることである。

 

 こういうのは筋トレで考えるとわかりやすい。「正しいフォーム」とか「適切なウェイト設定」だとかは非常に重要である。ただし、それはあくまでしっかりと筋肉を使うということが前提となっている。馬鹿馬鹿しいほどに当たり前の話である。

 しかし、もうちょっと複雑なことになると途端にそれが出来なくなってしまうものなのだ。

 たとえ二者択一だとしても量を取るべきだが、こんなのは二者択一の問題ではない。量は前提であり、当たり前の話だ。そのうえで質にこだわるべきなのだ。

 成功は量の確保から始まる。

 

 よくある「ブログは量が重要なのか、質が重要なのか」という問題においても、その答えは明白である。たとえ質を重視しても、「じゃあどうやって高い質を実現すんの?」と考えていけば結局は量にたどり着いてしまうのだ。既に高い質を実現出来る人でも、継続的に評価されるためにはある程度の露出が必要で、やっぱり量が鍵となってしまう。

 したがってどうであれ、まず量を確保することを第一に考えるべきなのだ。

 悩んでる暇があるなら書け。

 それでも悩むなら悩みでも書いとけ。

 それでも駄目ならコーラック

 

不言実行

 出来ない時の主な発言→「したい」「する」

 出来る時の主な発言→「した」

 

 これは一種の真理である。

 

 たとえば英語学習だと、「英語を勉強したい」などと言ってはいけないのだ。言っていいのはあくまで「英語を勉強した」ということだけである。

 そもそも英語学習をしたいと思うのは、英語対して何らかのもやもやがあり、それを解消したいと思うからである。しかし、「英語を勉強したい」などと誰かに話してしまうと、それだけで英語に対するもやもやが少し解消されてしまうのだ。よもや意気込みなど口走ろうものなら、言葉とは裏腹に、気づかぬうちにモチベーションがだだ下がりする可能性がある。

 

 だから動機となるもやもやを行動以外で消費しないように、なるべく不言実行を心がけるべきなのだ。背負うものがない限り、有言はもはや呪いのごとく成功を遠ざけてしまうだろう。

 何かしたいと願う時に、そのエッセンスを具体的な言葉にして誰かに伝えるなんていうのは一番のタブーである。成功してからしか言ってはならない。

 

 

 ここで僕は気づいた。

 

 この記事、一番のタブーじゃないか……

 有言の呪いのせいで質の高い行動が出来なくなってしまった……

 ああ、どうしたらいいのか迷ってしまう……

 もうだめだ。僕は成功できない。

運営側がGoogle AdSenseでニートでも簡単に1万円稼げる方法を教える

訂正

 予想に反してアプリ☆メーカーは以下の文章を書いた時点よりも成長したため、各金額は5~10倍くらいになってます(2015年末時点)。

 


 

 これはそこらへんのブログ運営術の類ではなく、とあるサイトの運営側が教える裏ワザである。今しか使えないかもしれないし、誰でも出来るというわけでもないかもしれない。

 しかし、現時点でこの方法より簡単に稼げる方法を僕は知らない。

 だから運営側なのに普通にユーザーとしてがっつり使って稼ぎまくっていたのだが、さすがにそれでは運営が上手くいかなくなってしまう。そろそろ多くの人に使ってもらって、それによる運営としての収益を増やしたいと思っている。そうすることで、長期的にはユーザーとして頑張るよりも更に稼げるようになると予想している。

 

 さて、そのサイトとはアプリ☆メーカーである。

 リリースして日が浅いうえに億単位のPVを稼ぐほどのモンスターサイトではないので知らない人も多いだろうが、一千万を超えるPVは稼いでいる中堅サイトなので、アンテナを張り巡らしている人ならばきっとどこかで見たことがあるだろう。

 

 アプリ☆メーカーはシンプルなWebアプリをユーザーが作れるサイトだ。よくあるツイッター連携サービスはだいたいアプリ☆メーカーで同じものが作れてしまい、プログラミングが出来なくてもそれっぽいWebアプリがささっと作れる。

 で、作ったアプリにAdSenseを貼ったりAmazonを貼ったりできるので、多くの人に使われるアプリを作れればユーザーはそのまま広告収入を得られるという訳だ。

 

 が、実際のところ、1000万を超えるPVのほとんどを数人のユーザーで分けあっている状態だ。アプリ利用者がとんでもなく多いのに制作者が少なすぎるのだ。だから5分くらいで適当に作ったやつがなぜか数万円稼いだりするようなラッキーが頻発している。

 その状態が素晴らしすぎて僕もそこでいい加減なアプリを作りまくっているが、運営が一番のユーザーになっちゃってる現状は明らかに良くない。

 

 アプリを制作したユーザーのAdSense広告が表示されるとはいえ、下のほうには運営の広告が表示される。だから別に運営がユーザーとして頑張らなくても収益は得られる。

 ただ、下のほうの広告なので、各アプリページで運営が通常得られる収益はユーザーの10分の1くらいになる。一方で運営の僕がユーザーとして頑張っちゃえばその10倍の収益を得られて手っ取り早いので、ついつい自分が頑張ってしまっていた。

 しかし、僕を超えるユーザーが10人以上いれば、僕が頑張る以上の収益を得られ、僕が頑張る必要はなくなる。100人以上いれば、自分が10倍頑張るよりも大きな収益が得られる。そう考えると、やっぱり僕は働かずに済む道を選びたい。

 だからここでアプリ☆メーカーで簡単に稼げる方法をより多くの人に実践してもらうことで、僕は我が不労の道を切り拓きたいのだ。

 

いざ、月1万円を簡単に稼ぐ

 この方法でどれくらい稼げるのかを検証するために、まず知り合いにやってもらった。その結果、割と簡単に月1万円をクリアしたので、それが現時点での「簡単」なラインとして妥当だと判断した。

 有力ユーザーへの聞き取り調査では、ユーザーは表示している閲覧数(ユニークユーザー数)につき0.2円〜0.3円くらいのAdSense収益を得ているという噂だ。運営はユーザーの広告収入の具体的な数字を把握できないので正確な数字はわからないが、どのユーザーもだいたいそんなもんじゃないかと思う。基本は0.2円くらいで、人気が出るほどライトユーザーを招いて0.3円に近づいていくんじゃないかと推測する。

 ユーザーの累計閲覧数は誰でも見られるので、上記の数値で計算すればなんとなくの収益額がわかるだろう。

 

準備

 まず必要なのは、Twitterのアカウントだ。これがないとアプリ☆メーカーでアプリを作れないので、どうしようもない。

 次に、AdSenseのアカウント持ってないとどうしようもない。

 持ってない人はこれでも読んで取得しよう。

 アプリ☆メーカーで広告収入を得るための手順

 

 実践

 とりあえずアプリ☆メーカーをいじってみてどんなサイトなのか知るのは必須である。シンプルなサイトなのですぐに全体像を把握できるはずだ。

  だいたい把握できたら、あとは主に「役割分担系のお手軽テンプレート」を使ってたくさん作るだけだ。

 コンテンツを作るセンスというのは打率のようなものなので、質の悪いものでも運が良ければヒットする。打席の中で素振りしちゃえば一石二鳥である。いろんなことは作ってから考えよう。

 ヒットするかどうかは作り手が決めることじゃない。とにかく作れ。

 

大切なこと

 アプリ制作で10割打者になるのは不可能である。だから一番大切なのは作り続けることだ。打率が低くても打席に立ちまくればヒット数はどんどん増えていく。

 そして次に大切なのは、頑張らないことだ。はっきり言ってアプリ☆メーカーでの成果は頑張り度合いにあまり比例しない。圧倒的に質より量の世界である。だからとにかく打席にたくさん立つことを考えるべきだ。

 目安としては、アプリ制作に費やす時間を1日10分程度に留め、その代わり毎日作るようにするのがいい。何を作ればいいのかわからない場合は、「役割分担系のお手軽テンプレート」を使えって適当に作ればいい。そうすれば楽に作れるし、充分に「簡単」の範疇だ。

 ほとんどテンプレートを使うだけでも、本当に1日10分程度のアプリ制作を続ければ、余裕で月1万円は超えるはずだ。現在の入れ食い状態なら確実だ。

 もし「そんなもので」と思う人がいるならば、その人はアプリ☆メーカーの基本戦略である「ソーシャルグラフを攻める」というポイントを甘く見ている。

 

ソーシャルグラフ特化のすごさ

 実はアプリ☆メーカー、検索から来る人はほとんどいない。1000万PVのうち15万しかいない。ツイートされるようなアプリを作るためのサイトなので、利用者は主にTwitterからやって来るのだ。アプリ利用者がアプリ使用結果を面白く思ってツイートし、そのツイートを見たフォロワーがアプリのページにやって来る。平均滞在時間は約2分と非常に短いが、この繰り返しによってリアルタイムの訪問者は常に100〜3000人おり、1日のPVは多い時で60万以上になる。

 このようにソーシャルな関係(ソーシャルグラフ)を攻めることに特化しているので、拡散性が強く、アプリは格段にヒットしやすくなっている。作って1時間も経たないうちに1万PVに達するなんてこともよくある。

 さらに鍵となるのは、テンプレートである。通常よりさらにソーシャルグラフへ拡散しやすく作られているので、適当に作っても量があれば何本かヒットするはずだ。数本ヒットすれば1万円は確実に超える。

 

ね、簡単でしょ?

 ここまで読んでもまだ簡単そうに思えない人もいるかもしれない。月に約30ものコンテンツを生産するのは一見大変そうでもある。

 しかし、思いつかない日はテンプレートを適当に埋めてやるだけでいい。勝手がわかれば5分でアプリが作れる。それすらも難しいならば簡単には稼げないだろうが、本当に大したものでなくていいのだ。多くの人には難しいことではないだろう。

 

 ただ、注意すべきなのは今後も今と同じような状況が続くとは限らないということだ。テンプレートを使って毎日適当に作って稼ぐ人が千人に増えたらさすがに競争が激しくなり、ヒットする可能性の高いものが埋もれてしまうこともよく起こるだろう。

 もう一つ注意すべきなのは、やっぱり5万円以上稼ぐのは難しいということだ。5万円以上は時の運に頼るしかなく、頑張りようがないのでキツイ。運営側の僕でも全然楽じゃない。世の中そう甘くないので、今の美味しい時期に適当にやって1万円稼ぐというライン以外はオススメできない。

 

アプリ☆メーカーで作れるコンテンツ

 最初にリンクがあったとしても、いちいちアプリ☆メーカーに行っていろいろ確認してから記事を読んでいた人はあまりいないだろう。なので今現在アプリ☆メーカーで作れる5タイプのアプリをここでざっと紹介する。

 

・ランダムな結果を表示するアプリ

 いろいろ出来るアプリ☆メーカーですから、よくある診断系のやつも当然作れるわけですよ。そういうのに自分のアドセンス広告貼れちゃったら楽に儲かるのになぁと思いません? サーバーにも優しいので、このタイプは運営的に結構助かる。

 

Twitterの情報を解析するアプリ

 このタイプのアプリが最もアプリ☆メーカーらしいアプリを作れる。フォロワーも巻き込んだ結果を出せるので、拡散性の強いものを作れ、爆発力は全タイプの中でも最強。

 本格的な形態素解析も実装しているので、ツイート文から特定の品詞を持ってきて組み合わせたりもお手の物。最近だと、ツイートの形容詞or形容動詞と頻出の名詞で毒舌あだ名を作る「毒舌あだ名メーカー」が人気。

 
・1ページだけのサイト

 テンプレートもこれに書いてある。主に文章を載せるものなので人気が出そうなものを作るのは難しいだろうが、ちょっとしたことを書いて人に見せる時に便利なので作った。相互フォロー限定公開にして使うこともできる。

 やっている人はいないけど、動画も画像もツイートも埋め込めるので、ここでTogetterNaverまとめようなものを作って広告収入を得ることも可能っちゃ可能。

 

・クイズアプリ

 普通にクイズ作れちゃう。例えばこんなの→常識漢字テスト

 記述式にも対応。問題数を増やすと作るのが少し面倒になるけど、アプリのアイディアを考えるのが一番楽なタイプ。実装したばかりなので競合は少ない。

 アプリメーカーはどのタイプでもTeXという数式用の記法にも対応しているので、これでガチな数学問題も作れる。数式がこんな感じで綺麗に表示される→クイズアプリと数式表示機能追加のお知らせ!!

 
・インタビューアプリ

 制作者は質問文を考えるだけでいいので、一番作るのが楽なタイプ。実装したばかりでこのタイプはまだほとんど作られておらず、拡散性は未知数。

 アプリページの例→Twitterユーザーにインタビュー!

 回答ページの例→「Twitterユーザーにインタビュー!」への回答

 回答ページにもアプリ制作者の広告が表示されるため、作るのが楽な割にはいいかんじの広告収入を得られるかもしれない。

 

 

 余談だが、「アプリ☆メーカー」はリリース当初「アプリメーカー」だったが、 商標的な問題で改名を余儀なくされたw

 さらに余談だが、☆は「白星」というげんを担いだ「つのだ☆ひろ」にインスパイアされ、塗り潰しの★ではなく白抜きの☆にした。だから「常に白星」という願いを込め、黒背景白文字の場所では塗り潰しのほうで表記している。

 

おわりに

「運営側がGoogle AdSenseニートでも簡単に1万円稼げる方法を教える」というタイトルだが、僕の知る限り、そこに偽りはない。

 よくある同様の記事では大体が全然簡単じゃなく、おまけに実践した人の大多数が失敗している。むしろそういう記事を書いたブログのアフィリエイトで稼いでいるから稼げているという詐欺みたいな構造のものも少なくない。

 他にスキルも必要とせず適当にやって1万以上稼げる方法があるならばむしろ教えてほしい。そして広めてほしい。

 なぜなら我がウェブ研の基本方針は「娯楽・教育・富の再分配」であり、すごく大雑把に言うと「こんな世界間違っている!ニートでも収入を得られる新世界をもたらしてやる!」みたいな思想で活動している側面があるからだ。

 だからそういう面では、この記事で紹介した方法も出来ればニート、主婦、学生みたいな立場の人に実践してもらいたい。元から金を稼いでいる人にやられるとちょっと困る。なるべく富の再分配が実現される方がいいのだ。

 

 というわけで頑張れニート! アプリ☆メーカーによって新世界の礎となれ!

 

 ウェブ研公式サイト

 

ムードの奴隷になっちゃ駄目だ

 誰かの記事をきっかけにして書くのはなんとも受動的で楽だ。でもそれは「自分で考えた結果」を書いているのではなく、「誰かに考えさせられた結果」を書いているだけだ。つまりは思考の主導権を他者に奪われた状態であり、いわば思考の奴隷に堕してしまっている。自分なりの答えを出したところで、その思考の土台となるムードを他者からもらっていて思考の農奴みたいなもんで、やっぱり奴隷だ。

 

 この僕がいつまでも奴隷でいるのか? それは愚問に違いない。

 

 というわけで今日もヒャッハー! 奴隷記事だぜ!

 僕は街頭募金が苦手だ。 - いつか電池がきれるまで

 読んだ。

 この記事の細かい内容に絡んだことは書かないので、今回は要約もいらないだろう。僕はただ、「街頭募金が嫌いだ」ということを言いたいだけだ。

 

 なぜ街頭募金が嫌いなのかというと、大して効果がないからだ。そして正確にいえば街頭募金というアイディアが嫌いだ。

(誰かを救うためでなく、「可哀想な人を救う」というポーズを取りたいがためにやっている街頭募金はただの下衆であり、ここで言う「街頭募金」に含まない)

 

 街頭募金で得られる資金なんてたかが知れているだろう。救いたいと強く願う理由があり、また街頭で叫べるくらい立派な意義があるならば、それをどっかの社長に説いたほうがはるかに効果がある。

 ネットのおかげで「どっかの社長」と接触するためのコストは、街頭で募金活動するよりも圧倒的に低い。ネットで連絡先を公開している社長も多いし、大きくない会社なら代表電話番号に掛ければすぐ見ず知らずの社長と話が出来る。そういう感じで僕は何人かの社長と無理矢理コンタクトを取ったこともある。よくある営業電話でないならば無防備にもみんなとりあえずは話を聞いてくれるものだ。

 具体的な救う対象があるならば、ネットのオープンさを利用する手もある。社長個人のアカウントでソーシャルな活動をしている人も多い。徒党を組み、社長へのお願いが人目に触れるように仕向ければ、相当断りづらくもなるだろう。お金の使い道が透明化されていたりして想定されうる落ち度をなくしておけば、むしろ断った金持ちの方が悪者になるのでお金を出してくれる人は必ずいる。

 もちろん、そういった各個撃破のゲリラ戦術を駆使しても、十人に一人くらい行動してくれればいい方である。しかし街頭募金よりは相当に効率がいい。お菓子食べながらでも、一日使えば百人くらいを攻めることが出来る。一日中立って叫んでも街頭募金だと集まって数万程度が関の山だろうが、このやり方で社長数人を動かせれば数万なんて軽く超えるだろう。

 

 募金という手段に限定するとしても、僕だったら街頭ではやらない。

 まず駅のような人通りの多すぎる場所を避ける。群衆に対してではなく、個人に対して呼びかけないと無視されて終わる。もし駅で誰かが何かを落としても拾ってくれる人は稀だが、その場に二人しかいなければ多くの人が拾ってくれるのと同じだ。

 そして地元でやらなければいけない理由もないので、白金あたりの住宅街の付近にあるランクの高いスーパーの近くでやる。そこで買い物袋をぶら下げているのにオシャレしているようなマダムに声を掛ければ、駅で叫ぶよりもとんでもなく楽だろう。

 もしくは団地の周辺の公園を午前中に回る。ママ友の輪に入って頼めば、率先して断る人も少ないだろうし、見栄もあって誰かが募金してくれる確率は高い。一人が募金してくれればみんな募金してくれるから、これも楽である。恵まれない子供を救う類の募金ならなおさらである。

 

 街頭募金を見る度に、こういうことが頭を巡って嫌になる。「上連中も下の連中も何考えてそんなことやってんだ」と問いただしたくなる。もしそれが募金詐欺だったとしても、「リスクの割に儲けが少なすぎるだろ!もう少し頭使え!」と言いたい。

 

 当然ながら、ここで挙げたようなやり方には様々な心理障壁があるだろう。

 しかし、「救う」という明確な目的があるならば、別に構いやしないはずだ。そんな壁、ちょっとした段差程度のものだろう。

 単なる部活動とは違ってこういう問題に関しては結果が全てであり、「募金が集まらず恵まれない子供たちは死んでしまったが、声が枯れるほど彼らが頑張ったので良しとする」という考えが付け入る隙などない。命をネタにする以上、金集めてナンボ、助けてナンボである。

 企画者だろうが末端の人間だろうが、学生だろうがボランティア活動の一環だろうが、救われる命にそんなことは関係ない。救いたいと願って行動するなら本当に救える行動をすべきなのだ。

 

 とはいえ、街頭募金もそれを実行する彼らも嫌いだが、彼らの善意までは否定できない。何もしないよりはましだし、彼らは見るからにいい人そうであり、一生懸命であり、街頭募金しか手段を思いつかなかっただけのように見えるからだ。流石に知恵が働かなかった善意までも否定する気にはなれない。だから始めちゃった街頭募金に関しては頑張ってやってほしい。

 ただ知恵が働く方が断然好きなのは言うまでもない。電気のいらない冷蔵庫やどんな水も飲料水に変える装置、そういった貧困を救うための画期的なアイディアを目にする度にワクワクする。そしてウェブ研活動方針だってネットによる娯楽・教育・富の再分配だ。だから余計に「救えない善意」がもどかしい。

「救えない善意」という考え方は僕の喉元に常に突き付けられている刃でもある。僕が新しいアイディアを出せなくなった時、そいつは僕は切り裂くかもしれない。

 

 彼らが街頭募金なんていう行動を選択しているのは、雰囲気に流されているからだろう。「お金を集める、じゃあ募金だ」というムードの奴隷なのだ。学校の活動なら「奉仕活動、なら募金だ」という感じだろう。そして「募金を呼びかけるなら人通りの多い駅などの場所」といった具合にどんどん漠然としたムードによって行動が定められていく。

 それではいけないのだ。目的を実現するためには忍び寄るムードに反抗しなければならない。目的があるならば、ムードが用意した思考の土台で戦っちゃ駄目なんだ。

 これはどんな領域でもそうだ。就活だって創作だって同じだし、ブログだって同じだ。僕らは往々にしてムードに隷属した状態で悩んでいる。それはくだらないことだ。そういう悩みは基本的にムードが孕んでいる構造的欠陥であり、自分自身の悩みとは違うからだ。そこから離れれば悩みも消える。

 ムードが何なのかを見極めるのは難しいことだが、ほとんどの場合、ムードに抗わずに何かを成し遂げる方が難しい。

 

 僕はいろんなことでいろんなことを成し遂げたいとずっと思っていた。だから、多くの場所でムードと衝突して生きてきた。ムードから逃れたものも沢山あるけど、まだまだ僕はいろんなムードの奴隷だ。やつらはいつだって僕を絡め取ろうと忍び寄る。

 

 かといって僕はいつまでも奴隷でいるのか? それは愚問に違いない。

どんな話にもオチを付ける方法

 おちが付けられない。 - よしだのブログ

 読んだ。

 内容を要約するとこんな感じだ。

・話にオチを付けるのが苦手

・オチっていうのは一番伝えたい内容のことではないか?

即興小説トレーニングやりたい!うわぁぁめっちゃやりたい!超やりたい!誰か助けてくれ!やりたすぎて死んでしまう!

 もしかしたら少し解釈にズレがあるかもしれないが、シンプルな内容だし、だいたいあってるはずだ。

 

 まず言っておくが、オチがオチであるかどうかに内容なんて関係のないことだ。オチは別に結論である必要はないからだ。なんだってオチとして採用すればオチであり、オチはあくまでポーズなのだ。読者が「終わりなんだな」と思ってくれればなんでもいい。

 だから例えばウンコの話を書き連ねた最後にいきなりこんな文を加えてシュールに終わらせてもいい。

そんなことを考えていたら、ひやりとした夜風が頬をなでた。今年の冬は冷えそうだ。

 もしくは、

なんだかカレー食いたくなってきた!

 と馬鹿みたいに終わらせてもいい。

 いきなり〈おしまい!〉と書いたっていい。

 もうなんだっていいしどうだっていい。

 

 普段の会話で「で?」とか言われたりする人も、内容に問題があるわけではない。話の途中と話が終わった時の声のトーンが同じだからそうなる。話が終わって話すのをやめても、聞き手はまだ続きがあると思っているのだから、続きを促されるのも当然だ。

 そういう場合でもとりあえず声のトーンを落として「まぁそういうわけなんだよ」とか適当に言っとけば、内容が滅茶苦茶でも論理的じゃなくても伝える順番がデタラメでも、「で?」と言われることなんか滅多にないはずだ。

 

 もちろんオチの上手い下手はある。しかし、それも構造的な問題であり、内容によって決まるものではない。

 一番オーソドックス構造は、最初に戻るというものだ。ブログだとタイトルか冒頭の言葉で締める感じになるだろう。話の途中の部分でもいいが、タイトルか冒頭がやはり一番きれいにオチが付く。

「どんな話にもオチを付ける方法」というタイトルならば、最後のほうで取って付けたように「そしてやっぱり何よりも大切なのは、あなた自身の気持ち。あなたがオチだと強く思えば、それがオチになるのです」みたいなくだらない綺麗事をほざいてから、

それこそが、どんな話にもオチを付ける一番の方法です。

  とタイトルの言葉を使って締めちゃえば一応綺麗なオチの構造が出来上がる。内容としては「なんじゃそりゃ!」というものだから腑に落ちないが、話はオチる。最初に戻れれば何でもいいのである。

 冒頭で挙げた「おちが付けられない。 」も、言いたいことだけ言ってろくにまとめないで、

……ああ、今日もおちが付けられない。

 で締めちゃえば「それがオチやないかーい!」と突っ込まざるを得なくなるくらいオチが付く。

 

 最初に戻る方法というのは、最初と同じ言葉を使うパターンだけではない。

 最初に戻るといってもあくまでその文章の基本状態に戻るということなので、筆者のスタンスを再度提示するのでもいいし、文章に一貫して流れる感情や雰囲気を一言で表現してもいいし、またそれらを比喩的に表現してもいい。

 特に比喩的に表現して余韻を残して終わる方法は実に「それっぽく」オチを付けることができる。コラムや編集後記を任されるといい歳して作家気分に浸ってしまう、ごく一般的な新聞記者なんかにやたらと好まれている方法でもある。

 例えば日本経済の先行き不安を無責任に煽り、さっきのウンコの話のオチで使った文をコピペして、

そんなことを考えていたら、ひやりとした夜風が頬をなでた。今年の冬は冷えそうだ。

 なんて締めちゃえばあら不思議、量産型新聞記者コラム風の文章の出来上がりだ。ね、簡単でしょ?

 内容なんか関係ない。終わりを認識させればそれがオチだし、上手い下手も結局は構造である。

 

 そしてやっぱり何よりも大切なのは、あなた自身の気持ち。あなたがオチだと強く思えば、それがオチになるのです。

 それこそが、どんな話にもオチを付ける一番の方法です。

テクニックの前にメンタルを鍛えるとどうにかなっちゃうことが多い

 今更だけど

 書く筋肉のトレーニングにおいて自分が何を意識してるのか考えた - ←ズイショ→

 を読んだ。

 内容は忘れたけど、とりあえずズイショさんがあの文体以外で書いたらどうなるんだろうなぁと思った。

 もしかしたらあれでもまだぬる目で、リミッターを解除したら舞城王太郎よりすごい文圧かもしれない。はたまたあのブログは谷崎潤一郎における春琴抄のようなもので、本当は全く違う文体を隠しているのかもしれない。

 とにかくまぁ何が言いたいかというと、文章自体は読みやすいのにいつも文体がやたら読みづれぇw

 

 とまぁ前置きはさておき本題へ移ります。

 上の記事は、

 変化球が欲しいからこれから毎日ブログを書くよ。 - マトリョーシカ的日常

 という記事に言及したものだ。

 その記事の要旨はまさにタイトル通りで、変化球が欲しいから毎日ブログを書いてトレーニングするというものだ。

 とても真面目である。やれやれ、僕は感心した。

 

 しかし同時に、変化球を生み出してくれるウェブサービスもあるんじゃないだろうか、という疑問が湧いてきた。

 そこで「変化球 生み出す トレーニング」と検索してみた。

 が、当然ながら野球の内容ばかりで、それっぽいウェブサービスは見当たらない。

 なので「変化球 生み出す トレーニング 文章」にしてみた。

 それでもやはり野球ばかりだ。

 みんな野球好きすぎだろ!頭おか……いや、違う。「変化球」が野球用語だからだ。

 大切なことに気づいた僕はただちに変化球を消し、「生み出す トレーニング 文章」で検索してみた。

 

 するとありました!一番上にありました!やっぱりGoogle先生は流石ですね!

 即興小説トレーニング

 ええ、そうです、これが本題です。

 誰が作ったかはよく知らないが、文章をトレーニングするのにこのサイトはうってつけである。

 実際ズイショさんも使っているという。

 また、最近ネットから姿を消した人気ブロガー、某コンビニ店長も使っていたサイトだ。某コンビニ店長は即興小説トレーニングでいかにして書くかを詳細に綴った記事も書いていた(匿名で使っているらしいので、文体で判断できるなら今でも彼の新しい文章を読むことが出来るかもしれない)。

 

 そんな即興小説トレーニングだが、そこで頑張っても文章の技術が特別上がるわけではない。

 そこでの顕著な効果というのは、

・書き出すための最初の一歩を踏み出すのが楽になる

・普段文章を書く時にあまり疲弊しなくなる

・自分の行動力を削いでいる悪しき完璧主義が打ち砕かれる

・自分の新しい側面を発見できる

 といったあたりである。

 要するに「文章を書く」ということにおけるメンタルに近い部分が鍛えられるのだ。

 なぜ鍛えられるのかは、単純である。やったことのある人はわかるだろうが、上記の項目に異常な負荷がかかるからだ。胃を悪くする人が出るレベルで負荷がかかる。

 しかし繰り返してみれば得るものは大きい。

 技術を直接鍛えるものではないので、単にブログで文章を書くだけの人にも有効だ。

 そして上記の項目に関連する力が付けば、ブログだろうが小説だろうが何の文章テクニックだろうが、かなり効率よく習得できるようになるはずだ。 どんどん書けるようになるので、ガンガン経験値が貯まるというマッチョで単純な理屈だ。

 

 経験者は「うんうん、あの負荷はすごいからね」と納得してくれるだろうが、それ以外の人にはいまいち伝わらないと思う。

 結局は死にそうになって強くなるというサイヤ人式のトレーニングでしかないので合わない人も結構いるだろうが、文章マッチョマンになりたい人は是非挑戦してみてほしい。

 アカウント無しでも使えるが、それだと匿名になって負荷が激減してしまうので、出来ればTwitterアカウントでログインして使ったほうがいい。逃げられなくなっていい感じになる。

 

 最初は制限時間を30分か一時間に設定するのがいいと思う。

 そして制限時間終了間際に「うわああああああ!」となってほしい。

 それから同じお題で書いた他の人の作品を読んでいろいろ考えてほしい。

 ついでに「バトル」というとこにある作品を読んで絶望してほしい。

 この流れを三回くらい繰り返せば思うはずだ。

 ブログはなんて書きやすいんだ……と。

 

 即興小説トレーニング

読点を減らせば文章力が上がる

 僕は声高にそう主張したい。

 たとえスラムダンクのオープニング曲が流れたとしても、僕は「読点を減らせば文章力が上がる」と叫びたい。

 世界の中心でも「読点を減らせば文章力が上がる」を叫ぶつもりだ。

 文章力とは何か。読点とは何か。

 それを知ればなぜ僕がこうも主張するのか、わかってもらえるだろう。

 

 そもそも文章を書くということは、情報整理との戦いだ。

 文章は一本の線なので、読者には一つずつしか情報を渡せない。かといって伝えたい情報を一度に伝えきるのは難しい。

 だから上手く物事を伝えるには、一度に渡す情報の適切な量と順番を考なければならない。それが文章を書くということであり、その能力こそが文章力である。

 

 そして読点とは、読者依存だと思っていい。

 誰もが知っていることだが、日本語の読点は文章内の「、」という記号である。

 では「、」自体の意味は何か?

 そんなものはない。「、」は情報の空白なのである。

 しかし空白といえども、役割が何もない訳ではない。リズムを整える役割もあれば、文を区切って情報を正確に伝える役割もある。

 さらに最大の役割として、二つの文を繋ぐという役割がある。

 通常、読者の思考は句点である「。」で区切られた一文ごとに途切れる。だから文章を書くほうはその一文に収まるように情報を整理していく。だが句点で区切らず読点で二文を繋ぐと、読者の思考は途切れることなく働き続ける。句点を読むまで休まない。

 すると読者の思考の一区切りにおいて伝えられる情報が多くなる。それによって情報整理はより楽になり、またさらなる効率化も図れる。

 ただし一文の中で使えば使うほど、読者の思考を本来よりも長く稼働させることになる。つまりは読者の負担になるのだ。そうなると内容に対する読者の理解力を奪っていくことになり、伝えたいことが上手く伝わらなくなってしまう。これでは本末転倒である。

 あくまで読点は読者に少しだけ頑張ってもらうことで、結果として読者に伝わりやすくして負担を軽減するというものなのだ。

 

 しかし文章力のない人はこの本末転倒をやってしまいがちだ。伝えよう伝えようと頑張るあまり、読点をたくさん打っているのだ。

 読点をいくつも打ちたくなるのは、情報整理が上手くいっていない場合がほとんどだ。要するにこんがらがった情報の整理を放棄し、読者の思考時間を無理矢理伸ばすことで伝えようとしているのだ。だから読点を増やす前に、まず情報整理をやり直すべきなのである。

 

 では一文に何回まで使っていいのか。

 一回だ。一回しか使ってはならない。

 二回でも危険な水準であり、三回以上は相当に危険だ。

 もちろん文章力の高い人ならば、二回以上使っても全く問題はない。なぜなら文章力とは情報整理の能力なので、そういう人が情報整理を放棄して読点を使うことはあまりないからだ。良い文章を書くことだけを考えればいい。

 しかし文章力に自信のない人ならば、絶対に一回までにしておいたほうがいい。二回以上使いたくなったら、文を練り直すか二文に分けるのだ。一文に二回以上使ったほうが良い文章になることも多いだろうが、一回しか使わずにいて支障が出ることなど滅多にない。情報整理と向き合う癖を付けるためにも、まとまった文章を書くときには一回を死守すべきだ。

 

 自信がないというほどでもない人でも、読点を二回以上使う際にはよく注意したほうがいい。どのような場合においても情報整理は必須であり、意識的に確認するのは悪いことではない。僕自身もこのブログのような手を抜いた場所以外で二回以上使う場合は、かなり注意を払っている。(ただまぁ流石にこの文章は一回までを遵守している)

 自分の文章力がどれくらいなのかわからない人は、とりあえず一回までに抑えながらまとまった文章を書いてみるといい。辛ければ辛いほど情報整理の能力が低いということであり、文章力が低いということである。

 

 頭の切れる人はもう気づいているだろう。実はもっと直接的に情報整理の能力を鍛える術がある。

 読点の全くない文章だ。

 しかしそれでいて自然に読めてしまう文章を書くのだ。読点を使っていないことに読者に気づかれないくらいだと理想だ。

 もちろん小説なんかだととんでもなく大変になってしまう。はっきり言って無理である。しかしブログなら柔軟な書き方ができるので無理ではないはずだ。もしくはツイートだと難易度も低くなってちょうどいいかもしれない。

 読点を使えないということは読者の思考を延長することが全くできないということだ。すると必然的に情報整理の力で文章を綴るしかない。おまけに自然な文章にするためには接続詞や短文も効果的に使わないといけない。リズムにも気を使うし文末表現にも敏感になる。鍛えられる能力は非常に多いのである。

 

 ただ、そうは言っても全く読点を使わない文章を練習する機会なんてなかなか作りづらいものだ。ごく普通の日常における実現は難しい。絶対に一回までにするというルールも、ブログのような媒体以外では実施しづらいだろう。

 そういうわけで日常において文章を書く際に意識するための、現実的なルールも提示したい。それは読点の使用をなるべく避け、使ったほうが良い文章になりそうならしぶしぶ使うというルールだ。簡単に言ってしまえば「読点を減らす」という意識を持つということである。

 これならば無理のない範囲で情報整理を意識することになり、ひいてはその能力が向上していくことにも繋がる。それは文章力の向上を意味する。

 つまりは「読点を減らせば文章力が上がる」ということなのである。

 

 普通の人ならばこれ以上簡単に文章力を上げる方法はない。ただ分析しただけの技術論に惑わされてはいけない。その多くは正しいが、分析結果は意識の中に携えていけるものではない。実用のために総合し、単純化された行動原理を持ち歩け!

 だからせめてこの言葉だけでも覚えてほしいと思っている。

 

 ——読点を減らせば文章力が上がる……

 

 ——読点を減らせば文章力が上がる……

 

面白さの構造

 

 ——「面白さ」って何だろう?

 

 さあ、なんと答える?

 そもそもあなたは答えを出せる?

 もし何らかの答えを出せる人がいるならば、是非ともブログやブックマークコメントかなんかに書いて欲しい。他の人がどう考えているかをすごく知りたい。

 

 僕の出した答えはこうだ。

面白さとは意識の加速度である。

 これは理論というよりも、「面白さ」なるものを感覚的に理解・構築するための表現だ。だから「面白さ」の全貌を体系的に秩序立てる力は弱いかもしれないが、人によっては「加速度」という言葉を見ただけで「なるほど」と思うかもしれない。

 僕はこれに関わる理屈を自分の中で「加速度理論」と呼んでいて、大抵のコンテンツの「面白さ」は「意識の加速度」という観点で説明することが出来ると思っている。

 

「意識の加速度」とは

 そもそも加速度というものは何かというと、それは読んで字のごとく、加速の度合いである。"G"という単位で表されたりもする。

 加速度そのものについてはまあどうだっていい。

 

 重要なのは加速度を感じる時の感覚である。

 ——電車が動き出す時と止まる時のあの感覚。

 ——高速エレベーターのぞわっとするあの感覚。

 ——足を踏み外してぐらりとする時のあの感覚。

 こういったものが加速度を感じる時の感覚である。体がある状態から別の状態へ短時間で変化することで、ある程度の加速度が生じ、それを感じているのだ。

 

 そしてそして似たような感覚を体ではなく、コンテンツの受け手の意識の上で生じさせることで「面白さ」が生じる。

 しかし、これだけではまだまだ説明不足だろう。

 

そもそも意識とは

 この文章で言っている「意識」というのは、「意識が向いている」なんていう時の「意識」と同じだ。

 意識は基本的に一つのものにしか向けられない。そして常に連続性を持っていて、一つの流れの上に乗っかっている。

 その流れを誘導するためのレールのようなものがコンテンツの持つ文脈である。だからコンテンツにのめり込んでくれさえすれば意識は文脈に乗って流れていく。そうして流れていく意識の加速度が「面白さ」となるのだ。

 

意識の加速度を生じさせるためには

 ここまでの話はあくまで「加速度」という表現についての説明であり、それ自体は重要ではない。重要なのはここからの、いかにしてそれを生じさせるかということである。

 当然ながら文脈上を意識がただ流れていくだけならば電車なんかと同じで、体感する加速度は微々たるものだ。せいぜい最初と最後に「おっ」と思うだけで、あとは大して加速度を感じない。

 ただ真っ直ぐな文脈で充分な「面白さ」を感じさせるためには、スペースシャトルの打ち上げくらい猛烈に加速し続ける必要がある。だがコンテンツの受け手が情報を認識する速度にも限界があるので、加速度はすぐ頭打ちになり、真っ直ぐな文脈で面白いだなんてのは現実には起こりえない現象だと思っていい。

 

 でははっきりと感じられるほどの加速度はどのようにして生まれるのか。

 それはこの三つの要素から成り立っている。

・レギュラー文脈

・イレギュラー文脈

・リンク

 この三つが組み合わさって「面白さの構造」を成しているのだ。コンテンツがコンテンツとして成立するための条件だと言っても過言ではない。

 

 このどれもが欠けてはならない要素であるが、逆にこの全てが充分ならば、たった一言でも面白くもなる。

 以下にこれらの要素ついて詳しく述べていきたい。

 

レギュラー文脈とイレギュラー文脈

 加速度が変化の度合いである以上、生じるためには二つの状態が必要となる。基本となる状態と、それとは違う状態である。

 それがレギュラー文脈とイレギュラー文脈である。コンテンツにおいて基本となる状態がレギュラー文脈で、それとは違った状態なのがイレギュラー文脈である。

 そしてレギュラー文脈に受け手の意識が乗っかっている状態でイレギュラー文脈に意識を引っ張ってくることが出来れば、「意識の加速度」が生じ、「面白さ」が生じるのである。

 文脈をレールに喩えるならば、電車は加速し続けるより、急カーブしたりいきなりレールチェンジしたり脱線したりするほうが乗客により強い加速度を体感させられるのだ。加速度の方向は関係ない。強い加速度なら前後だろうが左右だろうが、それが「面白さ」なのである。

 

リンク

 レギュラー文脈からイレギュラー文脈へ変化させれば面白い。実にシンプルなことである。

 しかし、ただイレギュラー文脈に変えればいいというわけではない。受け手の意識がしっかりとイレギュラー文脈に乗っかってくれないといけないのである。

 多くの人が経験しているだろうが、「ん?」という風につっかえてしまうものは面白くないのだ。そういったものは受け手の意識がイレギュラー文脈に上手く乗っからず、レギュラー文脈に乗っかったままになってしまっている。

 そうなってしまわないために、レギュラー文脈とイレギュラー文脈との間に何らかの関連性がないといけない。いわばレギュラー文脈とイレギュラー文脈の間の架け橋である。

 それこそが、リンクという要素なのである。

 このリンクが強いほど、よりスムーズに受け手の意識をイレギュラー文脈に移動させられる。

 

三要素の例

 このように「面白さ」とは三つの要素で成り立っているのだが、抽象的な話に終始しているとわかりづらいだろうから一度立ち止まって具体例を挙げたい。

 

 シンプルなほうがわかりやすいので、たった八文字の「布団がふっとんだ」という駄洒落を見てみよう。この文章で言っている「面白さ」は「笑い」に限ったことではないのだが、説明する際には「笑い」が一番わかりやすい。

 この「布団がふっとんだ」という駄洒落においてレギュラー文脈は何か。それは布団である。布団およびそこから想起される状況がレギュラー文脈となっている。

 ではイレギュラー文脈は何か。それは「ふっとんだ」という状況である。レギュラー文脈である「布団」とは明らかに方向性の違うものとなっていて、レギュラー文脈の時点では普通想起されないものだ。

 ではリンクは何か。それは「ふとん(ふっとん)」という音韻だ。このリンクによって二つの異質な文脈が連結され、この駄洒落が成り立っている。

 

「布団がふっとんだ」自体は別に大して面白くはないのだが、理由もなく駄洒落の代表格になったわけではないはずだ。おそらく駄洒落の中で相対的に見れば、布団がひゅーんとふっとんでいくイレギュラー文脈の異質さが際立っており、その点で相対的に優れているからだろう。

 

 一方で「アルミ缶の上にあるミカン」は違う部分で相対的に優れている。

 レギュラー文脈は「アルミ缶」、イレギュラー文脈は「ミカン」だ。「アルミ缶」と「ミカン」は異質なものではあるが、アルミ缶の上にミカンがあることは別にありえないことでもないので「ミカン」の異質さが際立っているとは言えない。

 しかし、リンクはどうだろうか。リンクは「あるみかん」という音韻であり、完全な一致度でありながら長さもあり、相対的に難易度の高いものであることは容易に想像できる。したがってこの駄洒落はリンクが優れているために有名な駄洒落としての地位を獲得しているのだろう。

 

 余談だが、受け手の反応はともかく、作り手に駄洒落が好まれる理由の一つには、リンクが音韻と決まっているので三要素を揃えるのが比較的容易だからなのかもしれない。

 

大きな「面白さ」を生じさせるには

 それではさらに進めていこう。

 三つの要素を揃えて「面白さ」を生じさせたとしても、それがあまりにも小さければ意味がない。より大きな「面白さ」を生じさせなければならない。

 それはつまりより大きな加速度を生じさせるということであり、そのためにはより短時間に変化させるか、より大きく変化させるかというのが主な方法だ。

 具体的には、レギュラー文脈からイレギュラー文脈への意識の移動をリンクを強くすることでよりスムーズにするか、レギュラー文脈とイレギュラー文脈をより異質なものにして意識の移動距離をより長くする必要があるということである。

 

リンクを強くする

 リンクを強くすることによって受け手がイレギュラー文脈を一瞬で受け入れ、より強い加速度が生まれる。

 リンクを強くするというのは二つの文脈の関連性をより強くするということであるが、そのために二つの文脈を似たものにしてしまったら本末転倒だ。変化の幅が小さくなれば加速度も小さくなるからだ。あくまで二つの文脈の質的な距離を保ったままで、よりリンクを強くするのだ。

 

 ただし、リンクが強くなければ面白くならないのかというと、そうではない。リンクは受け手の意識をイレギュラー文脈に乗せやすくするためのものであり、リンクが弱くても勢いや表現力で意識を強引に引っ張って来られれば加速度が発生するので面白くなってしまう。

昔々、あるところにお爺さんとお婆さんがいました。

 

_人人人人人_

>  突然の死  <

 ̄Y^Y^Y^Y^ ̄

 こんなリンク皆無のどうしようもないネタでも、うかつにも意識を引っ張られてしまえば笑うことだってあり得る。おそらく強引な表現により、表現自体がリンクとなってしまう現象が起こっているのだろう。

 ただ、加速度を生むことに成功しても、リンクの強さによって受け手が抱く印象は大きく変わってくる。

「笑い」を例にすれば、以下の様な差が出てくる。

・リンクが強い→秀逸

・リンクが弱い→シュール

・リンクが不明→意味不明 

  先ほどの駄洒落だと、リンクが弱めの「布団がふっとんだ」はどちらかと言えばシュール、リンクが強い「アルミ缶の上にあるミカン」はどちらかと言えば秀逸な印象を受ける。

 だからあえて弱めのリンクで強引に攻め続けるのもアリっちゃアリなのである。

 しかしリンクが弱いほど人を選ぶネタになってしまうので、シュールさや意味不明な感じを狙うのでなければ、なるべくリンクは強いものにすべきである。

 

 情報の伝達速度を高める

 意識がイレギュラー文脈へ移動する速度を高めることでより面白くすることができるのだが、受け手に情報が伝わる速度を高めるという方法もある。

 単純な方法としては、情報伝達の言葉等を短くすることだ。伝わりにくくならず、情報量も減らさず、なおかつリンクも弱まらない範囲で短くできるなら、短くしたほうがいい。

 

伏線回収やどんでん返し

 伏線回収やどんでん返しというのも、情報の伝達速度を速める類のテクニックである。

 簡単に言えば小さな情報に大きな情報を含ませることで、一度により多くの情報を受け手に与えているのである。それによりイレギュラー文脈へ意識が移動するのにかなりの情報が必要だとしても、短時間で実現しているのである。

 なぜ小さな情報に大きな情報を含ませることが出来るのかというと、それは小さな情報が新しい情報じゃないからだ。既に出ている情報であるから、情報が示す意味の他に、それがコンテンツ内で関わった様々な情報が付帯しているのである。その付帯した情報が大きな情報となるのである。

 内輪ネタほど面白くなるものこれと同じであり、コンテンツ外で付帯した情報が多い情報というのが内輪ネタだ。もっとも、付帯した情報がコンテンツ外に由来しているのでホワイトリスト的に人を選ぶネタとなってしまうのは言うまでもない。

 

 伏線回収やどんでん返しにはこれよりもさらに強くしたパターンがあるが、それに関しては後述する。

 

天丼

 お笑いの「天丼」というテクニックもやはり同様の類である。これは既に使ったイレギュラー文脈を、違う場面でも使うことである。

 ここで重要なのは、イレギュラー文脈は同じでも、レギュラー文脈は前に使ったものとは違ったものにするという点である。

 既に受け手の意識が乗っかったことのあるイレギュラー文脈を使うことで、別のレギュラー文脈とそのイレギュラー文脈がかなり異質でリンクも弱い場合でも、受け手の意識を引っ張って来やすいのである。

 このテクニックの成功率は、イレギュラー文脈に最初に意識がどれくらいしっかり乗るかで変わってくる。最初にしっかり乗るほど、二回目以降もスムーズに乗ってくれる。だからお笑いのネタ構成の常套手段である、序盤でウケたネタを「天丼」として終盤に使うやり方は、実に理にかなったものである。

 フリートークでも有効で、前にウケたネタのイレギュラー文脈を、違うレギュラー文脈でも使えばそこそこの打率となる。これは話が面白い人ならば大抵の人が自然と使っているテクニックでもある。

 しかしいくら「天丼」が有効なテクニックでも、ウケなかったネタならば、「天丼」を繰り返しても挽回は難しい。ほとんどはリンクの機能不全による意味不明な一人よがりで話し手だけが笑うという、悲しい結果に終わるだろう。

 

「天丼」、すなわち違うレギュラー文脈に同じイレギュラー文脈を使うテクニックは、「笑い」の領域以外でもよく使われる。

 伏線回収やどんでん返しも、このパターンによって行われることがある。ただ、これは同じ展開を繰り返すことになるので、長編小説等の複雑な文脈をなす媒体においては、最後のオチとして使うと陳腐化しやすい。むしろ絡み合った話を一気に単純化することで急展開させて話の山場に向かわせるような、力技として使うのがベタである。

 最後のオチとして使えるような伏線回収やどんでん返しのパターンは後述する。

 

リンクの後出し

 通常は受け手がレギュラー文脈を認識し、リンクを認識し、イレギュラー文脈を認識することで意識が動く。しかし、イレギュラー文脈への移動を速めるためには、レギュラー文脈とイレギュラー文脈を先に認識させ、リンクを後から認識させるというのも有効である。そうするとリンクの認識速度が、イレギュラー文脈への移動速度となり、かなり加速度を付けられる。

 これはミステリー作品でよくある手法でもある。結果がどうなるか、つまりイレギュラー文脈で「面白さ」を作り出すのではなく、トリックや動機、つまりリンクで「面白さ」を作り上げるのである。だいたいの作品で登場人物が死んだ時に面白く感じるのではなく死んでから話が面白くなるので、むしろミステリーではこの手法が主流と言えるかもしれない。

 

 いわゆる「なぞかけ」というのもリンクの後出しで、こちらはかなり構造がわかりやすい。

 Wikipediaに載っている例で見てみよう。

「ミニスカート」とかけて、「結婚式のスピーチ」と解く。

  この場合リンクが重要な役割を担っているので、二つの文脈はさらりと提示されるだけだ。もちろん二つの文脈により質的な距離があるほうが加速度が付く。

その心は「短いほど喜ばれる」 

  これがリンクになっている訳だが、短く、そして遠いものを鮮やかに繋ぐような強いリンクほど一気に情報が伝わるため、面白くなるのである。

 

ツッコミの第一の役割

 日本のお笑いの特徴であるツッコミもリンクに関わるテクニックである。

 ツッコミというのは話を本筋に戻したり、主に話の進行させる役割を担っているものだが、そういう面の説明は割愛する。

「面白さの構造」という観点のみから見たツッコミの第一の役割は文脈間の距離の強調であり、これがツッコミの基本である。

 ボケとしてイレギュラー文脈が提示された時に、「こんなにイレギュラーなんですよ!」と受け手に示しているのである。「なんでやねん!」という代表的ツッコミもまさにシンプルにその役割を担っている。

 また、切り返しの得意ではない芸人はフリートークでいじらた時、無意識だろうが、咄嗟にとりあえずこの役割だけを担う言葉で場をしのぐことが多い。 つまりは「イレギュラーだ」ということをのみ示す言葉で、「えぇ〜!?」とか「おかしいでしょ!」とかそういったものである。これはなんとかツッコミを試みるが、最低限要求されるツッコミ役を演じることに精一杯で、そこから先を考えられていない、もしくは場が作るネタの全体像を把握出来ていないからである。

 とはいえ、即座にツッコミ役の立場を示せるというだけでも高いスキルが必要なのであり、普通の人は無難に切り返すことだけでも難しい。

 

ツッコミの第二の役割

 ツッコミが担える役割はこれだけではない。第二の役割としてリンクの補強がある。

 これは相手の情報に対し、大して情報を含んでいない言葉でなく、新しい情報を含んだ言葉を使うのである。そうすることで二つの文脈の架け橋であるリンクを補強し、場合によっては補強でなく新たなリンクを提示し、もう一本橋を架けてしまうのだ。切り返しの上手い芸人がよくやっているが、これはなかなかすごいことである。

 くりぃむしちゅーの上田がよくやるような「たとえツッコミ」というのも、もう一本橋を架けてしまう手法にあたる。「お前は○○か!」とツッコんだりする時に「○○」をボケに含まれる情報とは違う新しい情報を使うことで、レギュラー文脈とボケのリンクをもう一つ増やしているのだ。

 

 タカアンドトシの漫才のツッコミとして有名な「欧米か!」も、一回目に使う場合はこのリンクを補強するパターンである。

 普通のやりとりの中でいきなり「それでママのチェリーパイがさ」などと言い出す段階では、リンクが極めて弱く、イレギュラー文脈の異質さで笑いを誘うものだ。しかし「欧米か!」という突っ込みを入れることでそれがイレギュラー文脈だということを強調しつつ、単純な異質さでなく、「よくある日本と欧米の違い」という受け手の共通認識(要するにあるあるネタ)でリンクを強く補強している。

 ただ、二回目以降の「欧米か!」は少し異なる性質を帯びる。それについては後述する。

 

ツッコミの第三の役割

 ツッコミの第三の役割は、リンクの後出しである。これは前の二つとはかなり性質の異なるものだ。

 このパターンの場合、イレギュラー文脈であるボケがレギュラー文脈から遠すぎてかえって「ん?」となりがちだ。そのままでは意味がわからず、ミスとなる。しかし他の人が絶対に見出せないような関連性をツッコミ役が見出してツッコミとして提示する。こうしてかけ離れた二つの文脈の間に一瞬にしてリンクが生まれ、かなりの加速度が生まれる。

 このツッコミは爆笑問題等の仲良しコンビのフリートークによく見られ、彼らの武器となっている。

 ただし、これはとてつもなく難易度の高いツッコミで、やはりよほどの仲良しコンビじゃないとしょっしゅう繰り出すのは不可能だ。ましてや我々一般人には狙って出来ることでもないだろう。

 

ノリツッコミの役割

 お笑い技術論という訳でもないのにやたらツッコミに関する文章が続くが、ついでなのでノリツッコミについても言及しておこう。

 通常、レギュラー文脈からイレギュラー文脈に意識が移動する時の加速度が「面白さ」なのは今までに言った通りだが、ノリツッコミもその際の移動時間をより短くするための工夫だ。

  ノリツッコミはイレギュラー文脈が提示されても無理矢理にレギュラー文脈にとどまり、受け手が充分にイレギュラー文脈を認識したところでツッコむことでより文脈移動速度を高めているのだ。

 ここで重要なのはタイミングである。早いとノリツッコミをする意味がなく、キレの悪いツッコミで終わる。ツッコミのキレが悪いと、意識の加速度も落ちる。反対に遅くても、受け手の意識は既にイレギュラー文脈に移ってしまい、意味がなくなる。もたもたしている間に意識がじわりとイレギュラー文脈に移るので加速度はやはり小さくなる。受け手の意識がイレギュラー文脈に自然に移ってしまうギリギリのところでツッコめば効果は最大となる。

 

 この文章は「面白さの構造」であるので、ノリツッコミのような一見マニアックなテクニックも「笑い」に限った話ではない。「笑い」において成り立つ「面白さの構造」は、他でもその「面白さの構造」が成り立つ。

 例えばラブコメで考えるなら、最初に嫌いだった相手を主人公が好きになり始め、それを受け手に気づかせるが、主人公には自覚させず、受け手がじれったくなるギリギリのところのエピソードの山場で一気に自覚させるという手法がノリツッコミと同じ構造である。

 ただ、「笑い」において「面白さの構造」が成り立つかどうかは「笑うか笑わないか」という半ば生理的な現象として明確に表れるので、やはり「笑い」が一番例示しやすい。そして手法も構造が明確なものが多く、説明しやすい。

 

リンクの天丼

 普通の「天丼」は、異なるレギュラー文脈においても同じイレギュラー文脈を使うことである。しかし、ネタというのは二つの文脈だけから成るのではなく、そこにリンクを加えた三つの要素から成る。

 したがって異なるレギュラー文脈とイレギュラー文脈において同じリンクを使うということも可能である。

 その実例こそが、二回目以降の「欧米か!」である。

 一度使ったリンクなので、受け手の意識はスムーズに移動しやすい。それにより二つの文脈の質的な距離を広げてリンクがやや強引になったとしても、意識を移動させやすい。また、そのリンクは一度通った道なので移動速度も速くなる。

 

 この構造は最後のオチとして使うような、伏線回収やどんでん返しのより強いパターンにしばしば用いられる。単に一度使った情報をもう一度使うのではなく、一度リンクとして使われたものを、異なるレギュラー文脈とイレギュラー文脈のより重要な場面でもう一度リンクとして使うのである。

 序盤で本筋と関係のない問題を解決するための糸口として出たものを、終盤の本筋の問題を解決するための糸口として使ってみせる手法がまさにそれである。

 鮮やかな伏線回収やどんでん返しが成功するかは、使用した情報の重要度ではなく、主にこの構造を持っているか否かで決まると言っても過言ではないだろう。

 

事実という最強のリンク

「面白さの構造」が成り立つためには、リンクが必ずなくてはならない。

 しかし、これといってリンクを作らなくても強力なリンクが最初から存在する場合がある。それが「事実」というものである。実際のレギュラー文脈から実際のイレギュラー文脈に変化したのなら、両者が関連性を失うことなどないからだ。だから受け入れがたい事実でない限り、受け手の意識はスムーズにイレギュラー文脈に移り、加速度が生まれる。

 そして事実というコンテンツにおいても、伝聞より直接見るほうがイレギュラー文脈への変化をより強く証明するため、強いリンクとなる。

 たとえば、同じノンフィクションにしても、伝聞に近い文章表現よりも、直接見るのに近い映像表現のほうがより強いリンクとなる。もちろん文章のほうが表現の幅が広がるのだが、全て映像に収められるならば映像のほうが強い。

 リンクが強いということは、イレギュラー文脈がどれほど異質であっても「面白さの構造」が成り立ってしまうということだ。その際、レギュラー文脈は日常や常識が担う場合が多い。だから極めて異質な実際のイレギュラー文脈、その一点さえ提示するだけでも面白いコンテンツが成立する。

 そしてまさにそういった方向に純度を高めたコンテンツが、ニュースやハプニング映像でなのである。

 

 ニュースやハプニング映像でなくとも、映像内の人物がレギュラー文脈を担っているような場合であれば、その人物がイレギュラー文脈を作り出すだけで「面白さの構造」が成り立つ。なぜならその人物の動作自体がリンクになるからだ。

 

二つの文脈の距離を長く

 より大きな加速度を生じさせるために必要な、文脈間を移動する時間を短くする方法については一通り説明したので、今度は文脈間の移動距離を長くする方法について述べていきたい。

 

 二つの文脈がより離れるように、一気に両方の位置を通常考えられる位置よりも離すことができればそれに越したことはない。ただ、人は考えようと思った時には一度に一つのことしか考えられない。おまけに「面白さ」は一つの文脈だけでは決まらない。

 だから意識的に何かを思いつこうとしたら、先に思いついた文脈に対して、後からもう一方の文脈をより離れるように考えていくしかない。

 という訳で以下にそれぞれの文脈を後から考えていく場合の例を挙げる。構造としては距離が広がればどちらの文脈が後かという点は関係ないのだが、何かを考える際にはやはりどちらが後に来るかで大きく変わってくるからだ。

 

イレギュラー文脈を後から考える

  これは非常にシンプルである。既に決まっているレギュラー文脈に対し、イレギュラー文脈をより離れた場所に置くするというだけだ。簡単に言えば相対的により異質なものを持ってくるのだ。

 とはいえ、簡単に言えても簡単に出来ることではない。

 強いてポイントを挙げるとしたら、イレギュラー文脈自体の持つ異質さや面白味で考えないことだ。コンテンツの「面白さ」は構造の中にある。だからレギュラー文脈との距離、そしてリンクの強さで考えるべきであり、場合によっては何の変哲もない事柄でも強力なイレギュラー文脈と成りうる。

 

 イレギュラー文脈をレギュラー文脈からいかに遠いところに置くかによって「面白さ」が決まってくる代表的なものが、大喜利である。

 具体例は「ボケて」にいっぱいあるので勝手に見て欲しい。お題画像の時点でちょっと面白いものもあるが、基本的には上手くリンクを作り、レギュラー文脈である画像から、いかに遠いイレギュラー文脈へ持っていくかが肝になっている。

 ただ、秀逸さを感じるネタほど、リンクの強さに起因する「面白さ」の割合が多い。それは前述したように、リンクの強さからくる印象の差がストレートに出ているからである。

 

レギュラー文脈を後から考える

 表現したいものとして思いついた時、それがイレギュラー文脈に来るべきものであることもよくある。例えばボケであったり、コンテンツの中核をなす部分や、クライマックスの展開や結末などだ。

 するとそれをより効果的に、つまり面白く感じさせるためには、土台となるレギュラー文脈をそこから遠いものにするとより面白くなる。

 よくある方法だと、斬新な設定を基本の状態とするやり方だ。そうすることで大抵のイレギュラー文脈との距離は自ずと広げられる。ただし、その「斬新さ」が一番難しかったりする。

 方法はそれだけではない。あくまでイレギュラー文脈との距離で面白さが決まるものなので、距離さえ広げられれば斬新でなくてもいい。

 例えばコントのレギュラー文脈に葬式シチュエーションを設定してみるような方法だ。

 もはやこの時点で「あ、これはずるいな」と感じた人も多いだろう。しかし葬式自体が面白い訳でもないし、斬新な設定であるはずもない。

 ではなぜこの方法がずるいと感じるのかというと、面白くなりやすいということを経験的に知っているからだ。

 コントであるからにはイレギュラー文脈であるボケはおかしさや滑稽さを表現するのがほぼ決まっている。すると葬式シチュエーションという極めてシリアスなレギュラー文脈は、普通のコントのシチュエーションと比べ、ボケであるイレギュラー文脈との距離を広げやすい。

「シリアスな笑い」と言われるような、シリアスな雰囲気なのに笑ってしまうパターンもここに含まれる。

 ただ、これも「笑い」の領域に限った話ではない。他の領域の例では、小売店販売員のあるあるネタを設定の中心に据えた時に、舞台をごく普通の現代でなくあえて魔法ファンタジーの世界にしてしまうような手法がちょうどこれにあたる。

 

 不謹慎なネタほど妙に面白くなってしまうのも同様の理由だろう。もちろん、引いてしまうほど不謹慎だと意識をイレギュラー文脈に引っ張ってくることも出来ず、加速度は生じない。

  

レギュラー文脈を意識になじませる

 レギュラー文脈をイレギュラー文脈に受け手の意識を移動させればいいのだが、そもそもレギュラー文脈にしっかりと意識が乗ってないと上手くいかない。しかも単に乗ってればいいという訳ではなく、よくなじんでいるほうがいい。

 イメージとしては、電車の乗客に慣性が付くほど、急停車や急カーブで乗客が加速度を体感するのと同じようなものだ。

 

 このレギュラー文脈を受け手の意識になじませるというのは軽視してはならない。小説でも何でも、最初に丁寧な描写をしっかりと行うのはほとんどレギュラー文脈をなじませるために行うものである場合が多い。時代を反映したコンテンツの強みも強みもここにある。

 また、人に物事の面白さを伝えるのが下手な人は、リンクやイレギュラー文脈ばかりを伝えてしまっていることが考えられる。面白くなるポイントは確かにそれらなのだが、それはレギュラー文脈あってこそであり、まずは丁寧にレギュラー文脈を伝えること必要なのである。

 

ボリュームのあるコンテンツの場合

 ボリュームのあるコンテンツの場合、レギュラー文脈とイレギュラー文脈を一組作っておしまいという訳にはいかない。複数の組み合わせを連続させていく必要がある。

 漫才のようにツッコミでいちいち元の文脈に戻すようなコンテンツでない限り、レギュラー文脈がイレギュラー文脈に変化したら、そのままイレギュラー文脈で進んでいく。するとイレギュラー文脈にも受け手の意識がなじみ始め、それがレギュラー文脈となる。そうなったらまたイレギュラー文脈に変化させ、この流れを繰り返す。

 ストーリーのあるコンテンツは単純化してしまえばだいたいこのような感じで構成されている。

 

 また、コンテンツの受け手が「続きを知りたい!」と思うように仕向け、コンテンツの先へ先へと進ませるテクニックを「引き」と言う。

 これはその時点の展開、つまりレギュラー文脈でイレギュラー文脈の存在を示唆することである。どういうイレギュラー文脈かを示唆するのではない。ただその先にイレギュラー文脈が存在しているということを強く示唆するだけだ。

 したがって引きも含めた流れを示すと以下となる。

 レギュラー文脈の提示→なじむ→引き→イレギュラー文脈に変化→なじんでレギュラー化→引き→イレギュラー文脈に変化……(以下繰り返し)

 

余談

 面倒になってきたので箇条書き。

 

ニコニコ動画のコメントで笑ったりしてしまう場合があるのは、動画というレギュラー文脈において、コメントが大喜利的にとんでもないイレギュラー文脈をもたらすことがあるからだろう。一体感なんていうのもニコニコ動画の面白さに寄与しているが、一体感で爆笑する人はいない。

 

・なぜイレギュラー文脈への意識の移動が「面白さ」をもたらすのかという問題になると、ちょっとよくわからない。たぶん人の学習本能の快楽とかそういうことだろうと思っているが、そこらへんの考察を誰か書いてくれると嬉しい。

 

・コンテンツの受け手の理解力が子供のように低い場合は、とにかくリンクを強めればウケる。イレギュラー文脈が全然イレギュラーな感じでなくてもいい。低レベルという誹りを恐れないなら、リンクが「あたりまえ」なんていうとんでもないものでも全く問題はない。

 

・「面白さの構造」は構造であるので、「エロス」という領域だろうとこの「加速度理論」は通用する。 「エロス」における「面白さ」は当然「エロさ」となる。

 

・ツッコミは文脈を往復する効果もあり? しかしもうお笑いについて考えるのが嫌になってきた……

 

・本当は「アプリメーカー」を引き合いに出しながら説明する予定だったけど、すっかり忘れてた……

「アプリメーカー」ってのはあれです、アドセンス貼れちゃう診断メーカーみたいな。

 

面白さの構造を見出す 

 あとは実際のコンテンツを見て「面白さの構造」を見てもらいたい。

 とりあえず「面白さの構造」については一通り説明した。これであなたはもう構造から生まれる加速度で「面白さ」を考え、そして作り出していくこの「加速度理論」の使い手だ。必要な知識は既に持っており、見ようと思えば一応は全てのコンテンツに一定の構造が見えてくるだろう。

 もしまだピンと来ないという人がいたら、以下のページを見て欲しい。

このgif画像で笑わなかった奴いたら死ぬ

 どれも実際の映像なのでリンクは主に画面の中心人物の動作が担っているが、レギュラー文脈、イレギュラー文脈、そしてリンクから成る「面白さの構造」が見えるはずだ。

 

 また、「面白さの構造」は相対的なものである。全てはそれぞれの要素の相対的な差で決まる。

 だからレギュラー文脈を受け手のニュートラルな意識に設定すれば、イレギュラー文脈の一手で「面白さ」 を生み出すことが出来る。そういうところまで考えると、より様々な場所に「面白さの構造」を見出せるはずだ。

 例えばこの文章の冒頭だ。もし「面白さって何だろう?」という質問を見てその答えを考えてしまったり、答えを知りたがったりすれば、その時点で意識が引っ張られて加速度が生じてしまうのだ。大きな加速度ではないのでそれだけでは特別面白くはならないが、その一手で多少の「面白さ」が生まれている。こんな長い文章をここまで読んでしまったような人なら体感しているはずである。

 

構造であること 

 まだまだ細かいことをいろいろ言いたい気持ちもあるが、ここらへんで終わりにしようかと思う。きちんとまとめたこともない漠然とした考えを投稿フォームに直接綴っていくという作業に、ちょっと疲れてきてしまったのだ(笑)

 しかし一方で、書きすぎてしまったという気もする。

 なぜならこれは構造の話なのである。だから構造さえ提示できれば、その表層としての例を挙げる必要などないと言えばないのだ。当初もそういう予定だった。筆がよく進むという投稿フォーム直打ちのメリットを強く感じながら書いていたが、今となっては文章の流れが制御不能になりがちというデメリットをひしひしと感じている。

 

 何度も繰り返すが、この「加速度理論」はあくまで構造の話である。したがって、「笑い」のような一領域で成立している「面白さの構造」でも、その構造は「面白さ」の存在する全ての領域において通用すると考えている。そして「面白さ」が「面白さの構造」から生まれている以上、その構造さえ作ればコンテンツは面白くなる。

 だからもしあなたが何らかの領域で「面白さ」を生み出そうとするなら、この「加速度理論」も少しは役に立つのではなかろうか。

 

  最後に一つ言っておくが、「加速度理論」もまだまだ不完全で曖昧だ。ずっと漠然と考えていたことではあったが、大部分がこのブログに書くために数日でまとめたものに過ぎない。

 だからこれを読んだ人は是非とも自分の考えをどこかに少しでもいいから発信して欲しい。僕には知りたいことが山ほどあるのだ。

 

 さあ、もう一度聞こう。

 

 ——「面白さ」って何だろう?

 

 

はてなブログで改行したら行間が広くなりすぎる問題の解決方法

【追記】

 僕自身はこんな記事を書いておきながらのちのちMarkdown記法に移行しましたので、行間を狭くする設定を削除しています。

 

改行の問題

 はてなダイアリーからはてなブログに移転したわけだけど、投稿フォームで書いていると改行でやたらと行間が空いてしまう問題に直面した。

 別に大した問題ではないのだが、なんだか気軽に改行しづらくなってしまった。そして改行したらしたで、そのまとまりがいかにも「一つの段落ですよ」という感じになってしまい、書いていて窮屈な感じもした。

 確かに義務教育内での国語における段落の扱いはそんな感じで、そんなにバンバン改行するもんでもなかった。

 しかし書籍・ネット問わず、現代的な書き方だと結構バンバン改行するのが普通だ。それはそうしたほうが読み手にとって読みやすいからであり、僕を含め書き手は当然ながら読まれやすい文章を書こうとする。

 だから改行しづらいというのは非常に困るのである。

 もちろん、はてなブログの流儀に従うというのもアリだ。というかそれがマジョリティだ。

 でも僕はなんか嫌なのだ。改行でやたら行間を空ける媒体で文章を書いた経験もさほどないし、自分が今まで書いてきたのと同じ方法で書きたい。

 細かいことを気にしない、という選択肢も当然ある。行間なんか気にせずどんどん改行しちゃうのだ。

 それもまあ悪いことではない。実際、読み手にとってはさほど違いがないだろうから。

 しかし自分としてはどうしても気になってしまい、やっぱり書きづらいのだ。

 

 というわけで、解決策を模索することにした。

 

shift+enterしたら負け

 この改行問題というのは、enterを押して改行された時に普通の改行のコードである<br />でなく、</p>というコードが入力されるために起こる。</p>とは「段落(パラグラフ)の終わりですよ」というコードである。

 だから改行するごとにいかにもそれが「段落ですよ」という感じになるのは、実にまっとうな現象だ。しかしそもそも段落っぽさはそこまで出したくない。

 

 では普通の改行はどうすれば入力できるかというと、shift+enterで可能だ。それだけでいい。

 これで万事解決……ではない。

 

 実際のところ、改行のたびにenterでなくshift+enterの押すのは面倒である。

 というわけで、今度は普通にenterを押してもいいように変える方法を模索することにした。

 

pタグから逃げるのではなく、pタグを殺せ!

  僕が考えたのは、</p>つまりpタグのCSSを普通の改行と同じにしてしまう作戦である。CSSとはデザインやら何やらを何とかする何かである。

 デフォルトのCSSをチェックしてみると、案の定「pの上下には0.8行分もの隙間を空けてしまえ!ぐへへ」といういやらしいコードが書いてあった。

 なので「pの上下で変な隙間空けんな!」という怒りのコード打ち込んでうりゃっ!とすればpタグは実質無効化する。

 

 で、そのコードはどこに打ち込めばいいのかというと、「デザイン」→「カスタマイズ」→「サイドバー」とクリックしていって表示される「{} デザインCSS」というところだ。

 そこに以下のコードをコピペすればpタグは死ぬ。

.entry-content p { margin:0}

  ついでに本文の文字の大きさもデフォルトよりもほんの少しだけ大きくしたかったので、僕はこうも書いておいた。

.entry-content { font-size:15px}

 

  もっといい方法があるのかもしれないけど、ひとまずこれで改行問題は無事解決した。

 僕のように改行で行間が広く空いてしまうのが嫌な人には、とりあえずこのpタグ殺しをおすすめしておきます。

ついに出た!スキル無しでもWebアプリを作って収入を得られる禁断のサイト!

 スキルは無いけれど、ちょっとしたWebアプリを作って収入を得たい……

 なんて思っている人は多いでしょう。
 特に診断系Webアプリなんていうのは大した技術もいらない割に、拡散性が強いのでPVを増やしやすく、Google AdSenseのような類の広告ならかなり儲かる部類に入ります。
 もちろんそれはある程度流行って、いわゆる「バズった」という状態にならないと広告収入など無きに等しいレベルなのですが、相対的に見ればバズる確率も高く、制作時間も短く、圧倒的に低コスト高収入です。
 あえて診断系Webアプリの欠点を挙げるとすれば、流行っても頭打ちになりやすく、旬が過ぎるのも早い点です。広告収入が月100万を超えることはほぼ不可能で、おまけに長続きもしないのですから、もし専業化を目指しているなら診断Webアプリの制作ははっきり言って愚策です。
 ですが、副業やバイト代わりとしては、やはりこんなに割のいいWebアプリはありません。少しバズれば月数万円がポンと入ってきますし、思いっきりバズってしまえば月数十万円入ります。それは誇張でも机上の空論でもなく、事実として断言出来ます。
 なぜ断言出来るかというと、単なるインカレサークルである我がウェブ研が昨年の秋、実際に経験したことだからです。
 企業ではない、そこらへんのサークルでも万単位の収益を上げられたのです(企業でそれなら酷いもんですがw)。
 しかもサークルと言ってもその頃は設立してからまだ半年でした。今もそうですが、メンバーは2人しかいません。さらに2人ともサークルを設立するまではスキルゼロの素人でした。ですから良くわからないまま始めて学びながらいろいろと制作していたのですが、そんな我々でも意外と上手くいってしまいました。
 そこに味をしめた我々は、診断系Webアプリの量産を企てます。診断系Webアプリ1個につき数万円なら、100個作れば100万円くらいはいくかもしれない、と夢想しました。
 ところがそう上手くは行きませんでした。
 ご存知の通り、診断系Webアプリなんていうものはくだらないものです。診断系Webアプリの制作期間は半日から1週間と短いものですが、それでも制作にはそれなりのモチベーションというものが必要になります。頭も多少は使わないといけません。
 ですから「やるぞ!」という気持ちが湧いてこない限り、制作に取り掛かることなど出来ないのです。仕事で強いられているならともかく、「別にやらなくてもいい」という選択肢がチラついた状態ではなかなか作れないのです。なぜなら作るものがくだらないから!
 とはいえ、くだらないものは好きです。くだらないものちゃんのことは好きだけど、ごめん、付き合うのはちょっと違う気がするんだよね……そう、友達以上恋人未満なのです。
 そこで考えました。診断系Webアプリを毎回1から作る気にはなれないので、いっそのこと診断系Webアプリをプログラミングもコーディングも無しでさくっと作れちゃうようなWebアプリを作ってしまえ!と。
 そしてさらに考えました。プログラミングもコーディングも無しで作れちゃうなら、自分たちが使うだけでなく、すべての非技術者に開放しちゃっても面白いんじゃないか?と。
 そしてさらにさらに考えました。Google Adsenseの広告枠も開放してより多くの人に診断系Webアプリを作ってもらい、運営はそのおこぼれをもらうだけでもそれなりに儲かるんではないか?と。
 そうして自分たちだけでバズりそうなものを量産するクローズな方針と、他人に広告枠を開放して超量産してもらうオープンな方針を天秤に掛けました。
 その結果、メインの広告枠を手放すとページごとの収益は1/10以下になってしまうが、他人に超量産してもらえれば生産量は10倍なんか大きく超えるだろうし、何より他人に作ってもらったほうが楽ということで、オープンな方針で行くことにしました。よく考えたらオープンにしたって自分たちで使い続けることが出来ますし。
 とはいえ、診断系Webアプリを誰でも作れるようにしてしまうというのは、一種のタブーです。診断系Webアプリを受諾開発で作って楽に儲けてる制作会社も腐るほどありますし、それに絡んだ情報商材を売ってる詐欺まがいの人達もいっぱいいますし、診断系Webアプリは低レベルな技術者が参加できる最後のブルーオーシャンでもあるのです。それをすべての素人達に開放してしまうことになるのですから、彼らが吸っていた甘い汁を奪ってしまうことになるのです。
 そんな横暴は胸が痛みます……少しだけ。いや……ほんの少しだけ。いや……まぁ……そうです、正直に言ってしまえば全然胸は痛みません! むしろ彼らは死に絶えて然るべきで、我々が甘い汁を吸える確証は全くありませんが、彼らが甘い汁を素人に奪われるなら実に気味が良い! へっ! ざまぁ見ろこんちくしょー!
 そういう訳で、診断系Webアプリをスキル無しの素人でも作れて、おまけに広告収入も得られるサイトの制作が始まりました。

 ……それが4月の終わり。
 途中に「はたらけミュージック」の制作が入ったりなんやかんやで、結局制作を始めてから4ヶ月近くもかかってしまいました。
 ですがようやく完成したのです!
 ついに出たのです!
 というか出したのです!
 facebookの診断系Webアプリを作る機能は未実装ですが、Twitterの診断系Webアプリはじゃんじゃん作れてしまいます。プログラミングもコーディングも皆無で!
 Adsenseだって各種アフィリエイトだって可能です!
 
 それがこの「アプリメーカー」だ!
 http://appli-maker.jp/

  リリースしたばかりでまだほとんど存在を知られていませんし、作られたアプリも少ないのですが、これでシンプルなTwitter連携Webアプリはさくっと作れてしまいます。
 バズったりしているWebアプリでも、アプリメーカーだけで同じ機能を作れてしまうものがたくさんあります。ですからアイディアさえ良ければ、さくっと作ってどかっとバズるということもあり得るでしょう。優れたアイディアはあるが技術がなくて何も作れなかった人ならば、一気にその才能が世に放たれることでしょう。より多くのみなさんに使って頂けることを願います。
 こうして技術の壁を低くして、才能がより発揮されやすくすることが文明の力であり、世界が進むべき正しい道だと思っています。
 そして世界をそういった道に進めていくことこそ、我がウェブ研の理念であります。
 作るものはくだらないものでも、楽をするために作ったとしても、きちんと理念に沿った制作物を世に送り出せたというのは非常に心地よいものです。
 誰に、という訳でもありませんが、こういう機会を得たことを無性に感謝したい気持ちです。
 せっかくだから甘い汁を吸っていて、これから無数の素人に蹂躙されていく予定の人達に言っておきましょう。
 なんかあざーすw

 いや、やっぱりこれは締まらないですね。困った。
 しかし困った時は室伏広治。江戸時代から伝わる日本の風習です。
 なのでここは彼に感謝を伝えておしまいといたしましょう。

 室伏ありがとう!